今川館は後に徳川家によって駿府城という近世城郭に生まれ変わった/wikipediaより引用

今川家

今川館の戦い(武田軍vs今川軍)で戦国大名としての今川家は滅亡へ

東海地方の戦局を一変させた桶狭間の戦い

今川義元が討たれ、織田信長が台頭していったのは皆さんご存知でしょう。

同時に今川家は坂道を転げるように落ちていきますが、そのキッカケが海に飢えた虎こと武田信玄でした。

義元のいた頃は固く結ばれていた【甲相駿三国同盟】を放棄。

【薩埵峠の戦い】で氏真を敗走させ、合戦が始まったことは以下の記事に記しております。

武田軍の駿河侵攻は「薩埵峠の戦い」から始まった!そのとき今川軍は……

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今回はその続き。

永禄十一年(1568年)12月13日に起きた【今川館の戦い】です。

※文中の記事リンクは文末にもございます

 

今川氏の本拠地・今川館(府中館)

【今川館の戦い】といっても、【薩埵峠の戦い】同様に大きな戦闘には至っておりません。

「城」ではなく「館」と称されることからもお察しのとおり、今川の居館は防御機能の脆弱な建物だったからです。

もともと今川館は府中館とも呼ばれ、応永18年(1411年)に今川範政が建設したものです。

東西1000m・南北500mほどのエリアに今川家一族や重臣たちの館が置かれ、その周囲に家臣らの住宅等も配置されて城下町が形成され、駿府は「東の都」といわれるほどまでに大きくなっていました。

さすが足利家に連なる名門・今川家と言ったところでしょうか。

もちろん今川氏が、自国へ攻め込まれることを想定しなかったワケではありません。

平時の政治機能を有した今川館に対し、戦時用に「詰城(つめじろ・戦時に使用される支城)」を用意した――と目されているのが賤機山城(しずはたやまじょう)です。

いわば今川館を守ったり、そこへ逃げ込んで籠城をするための城ですね。

この二つの城は近くにあり、現在の計測で徒歩30分ほどです。

現在の駿府城は徳川家康によって建て直されたものであり、今川館の正確な位置は不明なのですが、当時もそう大きくはかけ離れていなかったでしょう。

 

武田家には要害山城

ちなみに武田信玄にも、本拠地・躑躅ヶ崎館に対して詰城がありました。

要害山城といって信玄が生まれた場所でもあります。

 

実は当時の武田家は、今川勢の福島正成(くしままさなり)に甲斐国の中まで攻め込まれ、どうにかこうにか武田信虎が追い払った、という経緯があります。

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今川義元・武田信玄・北条氏康の三者の間では、割と強力な同盟が築かれていましたが、そもそも彼らは昔から相争っていた関係性だったのですね。

一般的に愚将とされがちな今川氏真にしても、信玄の不穏な動きに対して何もしなかったワケじゃありません。

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武田家の背後を脅かすため上杉謙信との同盟交渉に臨むなど、それなりに手は打っていたのです。

その内容は

・信玄の動きに注意して互いに裏切らない

・氏真の要請があれば謙信は信濃へ出兵する

・連絡を密にする

などでした。

しかし、現実問題、信玄が一枚も二枚も上手でした。

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