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戦国時代に戦も政治もバリバリだった巨大寺院!延暦寺・本願寺・興福寺の実力

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戦国時代の巨大寺院
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興福寺

この中では最も歴史が古く、天智天皇八年(669年)の発祥。

藤原鎌足が亡くなった時、その妻・鏡女王(かがみのおおきみ)が鎌足の念持仏などを祀るお堂を建てたのが始まりでした。

当初は鎌足邸にありました。

それが和銅三年(710年)の平城京遷都によって、鎌足の息子・藤原不比等らが春日野にお堂を移します。

こういった経緯からもご想像できます通り、興福寺は藤原氏の氏寺(うじでら・一族が代々帰依)であります。

それだけではありません。

藤原氏の姫が数多く皇室に嫁ぎ、次代の天皇となる皇子を産んできたという関係から、皇室にも特別視されるのです。

そのため、平城遷都後も荒廃するということはなく、長く力を保ち続けることができました。

彼らの力を顕す一例が【春日大明神と興福寺の神仏習合】でしょう。

興福寺五重塔

貞観年間(859~877年)、摂関家が春日社の祭祀を振興したり、大和国の領国化を進めた折、摂関家と関係の深い興福寺は

「春日大明神は法相擁護の神(だからウチが支配しても問題ないよね)」

という屁理屈をこねて、見事に吸収してしまいます。

政治的な動きバリバリですが、このときは荒事(武力行使)を用いてないので、まぁ、政治力に長けていたんですね。

 

【大和の支配権】を主張する

皇室・摂関家・春日大明神という心強すぎる味方を得た興福寺。

彼らは次に【大和の支配権】を主張しました。現代の奈良県ですね。

理由が、これまたかなりの屁理屈。

「摂関家と縁のあるウチが、摂関家の代官の代わりに大和を支配するのは当たり前ですよね^^」という主張です。

しかしこれにより、大和の土豪たちも興福寺に従わざるを得なくなるんですからスゴい。

延暦寺と似たような立ち位置になり、この二つのお寺は

【南都北嶺】

とも呼ばれます。

南都=興福寺
北嶺=延暦寺

ただ、彼らは僧侶としての説法や学問もちゃんとやっており、本来の役目も忘れていません。

というか、延暦寺が荒っぽすぎて興福寺が穏やかに見えるんですよね。強訴はどっちもやっているんですけれども。

 

南都焼討からの復興後もグイ伸び

平安末期になり、院政の台頭で摂関家の勢力が衰えても、興福寺が没落することはありませんでした。

ほどなくして全盛期を迎えた平清盛も、彼らに対してはパワーバランスに心を砕いています。

しかし平家と言えば、治承四年(1180年)の南都焼討を思い浮かべるかもしれません。

平重衡(清盛の息子)が、東大寺や興福寺など奈良(南都)の寺院を焼討にした事件です。

平重衡/wikipediaより引用

実は平家はこれ以前から、奈良の他のお寺を攻めるなどの圧迫を行っていましたが、興福寺に対してはもう少し穏便に行こうとしていました。

そのため使者とその警備として軽装の兵500を送ったのです。

が、興福寺側が数十名をブッコロしてしまった上、その首を池の周りに並べるという凄まじいことをやってしまったので、一気に関係が悪化します。無茶しすぎですわな。

ちなみに、南都焼討の首謀者だった平重衡は、平家が壇ノ浦で敗れた後、興福寺を含む奈良の寺院の要求によって源氏から引き渡され、斬首刑となっています。

寺院なのに御首取り過ぎ……。

大きな被害を受けた興福寺でしたが、再興は比較的早いものでした。

このころ新しく広まった鎌倉仏教の影響で日陰の存在になるかと思いきや、奈良の町そのものが鎌倉時代に大きく発展。

興福寺としても、摂関家の子弟が門跡を務める一乗院・大乗院が起こり、さらに学問も興隆していきます。

これを見た鎌倉幕府も、

「今度からは興福寺に大和の守護を任せるよ」

と認め、名実ともに大和の主となりました。

ただ、これと同時に大和の宗徒や住民をどんどん僧兵化していったので、キナ臭くなってもいます。

 

戦国期を経て江戸時代に徳川の庇護

鎌倉時代末期には、門跡寺院同士が対立して僧兵・住民もまっぷたつに割れ、さらに南北朝問題もここに絡んで、興福寺は一時衰退してしまいます。

室町幕府が成立すると一旦落ち着いたが、もはや一枚岩にはなれず、大和も戦国時代へ突入していきました。

その一勢力で最も有名なのが筒井家の筒井順慶でしょう。

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筒井家はもともと興福寺一乗院に属していた武家集団で、他国で言えば国衆のような立ち位置です。

そこへ三好政権の後押しを受けた松永久秀が大和にやってきたため、かなり激しい勢力争いを繰り返し、最終的には戦国大名としての地位を確立しています。

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同時に信長や秀吉の介入を許し、興福寺としては俗世への影響力をかなり失いました。

まぁ、寺院として本来の役割に戻るきっかけにもなっていますね。

江戸時代に入った後は、徳川将軍家の保護を受け、建物も以前の通りに戻っています。

自衛のための手段がいつの間にか制御しきれなくなる――というのは戦国時代の寺院に限らない話です。

同じ轍を踏まないようにしたいものですね。

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長月 七紀・記

【参考】
国史大辞典「延暦寺」「本願寺」「興福寺」

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