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後藤又兵衛/Wikipediaより引用

豊臣家 黒田家 大坂の陣

後藤又兵衛基次56年の生涯をスッキリ解説!なぜ官兵衛子飼いの猛将は大坂城で最期を迎えたか

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2014年大河ドラマの『軍師官兵衛』と、2016年『真田丸』。
年代的に近い両作品には共通する登場人物がいます。

織田信長豊臣秀吉徳川家康という、三英傑。
北政所や淀の方といった、秀吉の身内。
石田三成小早川秀秋ら、関ヶ原の武将たち。

そんな中で、異彩を放っているのが後藤又兵衛基次ではないでしょうか。

『軍師官兵衛』では、塚本高史さんが演じる爽やかな若武者。
一方、『真田丸』では哀川翔さんが演じる経験豊富な、そしてワイルドな浪人衆。

関ヶ原から大坂の陣まで。
いったい彼の人生に何があったのか?

今回は彼の人生をたどってみましょう。

本稿では、彼の名としてもっともなじみのある「又兵衛」で統一します。

 

もとは小寺家臣の子

又兵衛は、永禄3年(1560年)、播磨国姫路近郊の神東郡山田村生まれ。

黒田官兵衛孝高(以下官兵衛)は天文15年(1546年)生まれですから、14才下になります。だいたい一回りといったところですね。
官兵衛の子である黒田長政は、永禄11年(1568年)で8才下。

父・後藤新左衛門は、もともと播磨別所氏の家臣で、のち小寺政職に仕えました。
小寺政職といえば、黒田官兵衛の主君でもあります。

ドラマ『軍師官兵衛』では片岡鶴太郎さんが演じられていたことでご記憶の方も多いでしょう。

後に官兵衛を裏切って荒木村重に売り、結局、滅ぼされてしまいます。

 

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黒田家で養われる

父を早くに失った又兵衛は、幼少期から官兵衛に養育され、その薫陶を受けて育ちます。

『軍師官兵衛』では、以下のようなシーンがありました。

官兵衛の薫陶を受けた又兵衛

その又兵衛が、官兵衛の実子である長政にダメ出し

長政、キレる

長政の代になって黒田家を出奔しますので、まぁ長政とは色々あったに違いありません。

ドラマでも、長政に対して
「父上ならそんなことしない」
とダメ出しする又兵衛は、ちょっとイラッとしておりました。

史実でも、まるで父であるかのように官兵衛を慕っていた又兵衛ですが、黒田家が最も辛いときに裏切るような行動を取ります。

 

「俺の家が一番大変な時に離反しやがって」

天正6年(1578年)、官兵衛は織田信長に背いた荒木村重によって、有岡城に幽閉されてしまいます。

このとき、残された官兵衛の夫人・櫛橋光、そして黒田家家臣一同は結束を強めます。
主君がどうあれ、我々はしっかり留守を守ろうというスクラムです。

しかしこのとき、誓紙への署名を又兵衛の伯父・藤岡九兵衛が拒み、又兵衛もこれに従うのです。
又兵衛、このときまだ二十歳前。
父は病死しており、伯父の意向には逆らえなかったのでしょう。

しかし、そんな言い訳が通じるわけもありません。

伯父ともども、又兵衛は一族追放処分を受けてしまいます。
又兵衛は、豊臣秀吉の配下であり、マンガ『センゴク』でも知られる仙石秀久に仕官しました。

ちなみにこの官兵衛の幽閉時、当時まだ松寿丸と名乗っていた長政が、大変な目に遭っております。
村重と共に官兵衛も織田を裏切ったとみなされ、その子までもが謀反人として首を要求されたのです。

このときは、官兵衛の盟友とされる竹中半兵衛の機転により、松寿丸は一命をとりとめております。

ゆえに又兵衛に対しては官兵衛が許したとしても、長政として釈然としないのも仕方ありません。

「俺の家が一番大変な時に離反しやがって」
そんな風に思うほうがむしろ自然ではないでしょうか。

 

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黒田家臣としてカムバックを果たす

又兵衛は、勇猛な武将でした。

彼の新たな主君である仙石秀久は、豊臣家の武将として九州征伐に参戦。
しかし、勇猛で知られる島津家を前に、「戸次川の戦い」で大敗してしまいます。

長宗我部元親や信親ら親子も、仙石による判断ミスの巻き添えに遭ったとして知られる戦いですね。

仙石秀久/wikipediaより引用

このあと天正14年(1586年)頃から、又兵衛は栗山善助利安の与力として、黒田家に復帰するのです。

黒田家としても、有能な又兵衛は是非復帰して欲しいところ。
過去のことは水に流して、うまくやろうじゃないか、となったわけです。

確かに又兵衛は強かった。

九州征伐、朝鮮出兵、そして関ヶ原の戦いまで、又兵衛はその豪勇ぶりを遺憾なく発揮します。
そして、大隈城(益富城)城主として、16,000石の所領を与えられたのです。

大出世です。素晴らしい!

しかし、主君である長政の胸の奥底には、又兵衛への屈折した思いがくすぶっておりました。

黒田長政とは? 偉大なる父・黒田官兵衛の跡を継いだ猛将は、ちょいと複雑な性格だった?

上の記事にもある通り、戦闘中、水中に転落した長政を放置することがありました。

又兵衛にも言い分はあるのでしょうが、長政にすれば、
「主君が死にかけているのに放置って、さては逆らう気だなオメー」
となっても仕方のないところです。

幼い頃は、官兵衛の元で育った二人。
官兵衛としては、長政にとって兄のような存在を育てた気であったかもしれません。

しかし、完全に裏目に出ました。

 

「奉公構≒絶縁」という重すぎる処分

慶長9年(1604年)、又兵衛が薫陶を受けた官兵衛が世を去ります。

徳川幕府が成立し、世の中から荒々しさ、戦が消えてゆく、太平の世が始まったばかりでした。

「待っていたぜ、この時をよぅ!」
と言わんばかりに、長政は又兵衛を追放することにします。

功臣であったにせよ、様々な言動が長政のカンにさわったのでしょう。
又兵衛は、長政と犬猿の仲であった細川忠興と交際する等、神経を逆撫でするような行動をとり続けていたのです。

まぁ、ここまでは、よくあるわけじゃないけど、わからなくもない話。
切腹させるよりは、マシかもしれません。

問題は、追放に「奉公構」というオプションをつけたことです。

これは、
【コイツがやって来ても、絶対に仕官させないでください・仕官させたら黒田家とはケンカということで】
と、他家に宣言することです。

わかりやすく言いますと、勤務先をクビにしたうえに、再就職に歯止めをかけるという、社会的に殺しに来る行動でした。

又兵衛ほどの武勇の持ち主ならば、他家でも引く手あまたでしょう。
しかし、長政はそれすら許さなかったのです。

慶長11年(1606年)、又兵衛は黒田家のある筑前を立ち退きました。
その後、池田輝政のもとに落ち着くのですが、長政は目を光らせています。

「うちをクビにした後藤又兵衛、おたくにいますよね? なんで勝手に匿っているんですか?」

そうクレームをつけました。
又兵衛は慶長16年(1608年)、池田家を離れることに。

長政、ちょっと大人げないですよね。

池田輝政wikipediaより引用

 

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流浪の身の上

しかし、長政だけ責めるというのも酷というもの。
又兵衛にもそれだけの非はありました。

池田輝政だけではなく、よりにもよって長政と不仲の細川忠興のもとにも身を寄せたことがあったのです。

慶長16年(1608年)には、見かねた徳川家臣・成瀬正成らが、長政への帰参斡旋をしたこともありました。
しかし、結局失敗に終わってしまいます。

そうこうしているうちに、江戸と大坂の間で不協和音が響き始めます。

そして慶長19年(1614年)、大坂の陣の火蓋が切って落とされました。

 

「大坂の陣」に参戦

又兵衛は、浪人として大坂に身を落ち着けました。
そのあとを黒田家が探索してきて、又兵衛の子を捕縛します。

豊臣秀頼は、浪人であろうと、大坂に住むものはわが民である――と基次父子を庇いました。

又兵衛が大坂方に馳せ参じたのは、その恩義ゆえともされます。
あるいは、腕のふるいどころ、はたまた死に場所を求めてなのでしょうか。

又兵衛のような浪人は、当時不満を抱えていました。
食い詰めており、腕を見せる機会もない。

そんな浪人たちにとって、大坂方は晴の舞台です。

元は豊臣恩顧であっても、大名やその家臣で大坂方についたものは、ほとんどおりません。

忠義を見せるためというよりは、生きてゆく場所を失い、追い詰められて、集ってきたのです。
そんな中でも、際だっていたのが又兵衛を含めた以下の5人です。

真田信繁(九度山に蟄居中だった真田昌幸の子)
・毛利勝永(関ヶ原の戦いで敗北、改易)
長宗我部盛親(関ヶ原の戦いで敗北、改易)
・明石全登(元宇喜多秀家家臣、キリシタン)

失うものは何もない、そんな浪人たち。
一方で攻め手の東軍は、15年間という実戦ブランクのせいか、ありえないような恥ずかしいミスを連発してしまいます。

数の上では優勢なのに、無様な崩れ方や味方討ちをしてしまうこともしばしば。
又兵衛は、秀頼家臣の木村重成とともに鴫野・今福を守備。上杉景勝・佐竹義宣勢と対峙しました。

このとき、佐竹義宣の軍勢を大いに破り、名をあげます。

摩利支天の再来――。

人々はそう賞賛したのです。

又兵衛は猪突猛進だけの将ではありません。
茶臼山にいた徳川家康への狙撃を止めて、二心があるのではないかと疑われています。

もしここで、家康を狙撃するようなことがあれば決裂は決定的です。
その判断は正しかったのではないでしょうか。

 

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衆寡敵せず――大坂夏の陣に散る

又兵衛はじめ、真田信繁らが華々しい活躍を遂げた「大坂冬の陣」。
一旦講和したものの、翌年には早くも講和が破れてしまいます。

こうして始まったのが、「大坂夏の陣」です。

ただ、この再戦にあたって、大坂城は講和の際にほぼ無力化されており、苦戦は必至でした。

又兵衛は、真田信繁らとともに積極的に討って出る策を提案。
家康が住吉に着陣する日に夜襲を仕掛ける奇襲戦法を提案します。

しかし、大坂城の首脳部である大野治長らは消極的であり、反対されてしまうのでした。

又兵衛は、大野治長の元で戦うことになりました。
実戦経験の乏しい治長に、又兵衛は献策します。

「数で劣るからには、開けた地形で戦うには不利です。高低差のある山岳で、勝負を仕掛けましょう」

又兵衛は、秀頼から「大和口」の先手を命じられます。
そして、河内道明寺に兵を進めました(「道明寺の戦い」)。

しかし、当初予定していた国分村は、既に徳川方先鋒・水野勝成が率いる部隊が進出していました。

やむなく次善策として、小松山に布陣。
寡兵ながらも健闘し、賞賛を浴びます。

が、又兵衛の後が続かないのです。

後詰には、後続の薄田兼相、明石全登、真田信繁らの軍がおりました。

彼らが駆けつけようとしたとき、濃霧が発生。
一方で、敵の伊達政宗の重臣・片倉小十郎が指揮を執る鉄砲隊が到着します。
10倍以上という圧倒的な火力に叶うすべもありません。

又兵衛は最期の咆哮をあげるように突撃を繰り返し、乱戦の中で命を落としました。
享年56。

又兵衛の子は、慶安2年(1649年)、大坂の代官所に捕縛されたと伝わります。

 

又兵衛の人気が長政の人気も下げた?

「大坂の陣」に散った後藤又兵衛、真田信繁らは、後世の人々にとって叛骨のヒーローとしてもてはやされました。
彼らに喝采を送ることは、徳川政権にぶつけられる不満のガス抜きにもなっていたのです。

その過程で、又兵衛の前半生における武功も強調され、愛されたました。

割を食ったのが、彼の元・主君である黒田長政です。

確かに長政は、性格的に問題が無いとは言い切れなさそうです。
が、戦国~江戸時代初期には、個性豊かなれど人格的にどうか?という方も多々おります。
酔っ払って家臣をブン殴ったり、様々な問題行動を起こした伊達政宗さんとか。キレやすい細川忠興さんとか。

一方で長政。
大人げなく陰湿、酷いときは短絡的で愚かという印象すら受けてしまうのは、一つ目に父・黒田官兵衛が偉大過ぎること。
そして二つ目は、
「後藤又兵衛をねちっこくいじめた挙げ句、再就職を阻んだパワハラ上司」
という印象があるからでしょう。

そこは冷静に考えてみたいものです。
又兵衛にも、大人げない振る舞いはあったのです。

もし又兵衛が出奔せず、黒田家臣として一生を全うしていたら――大坂の陣で散ることもなく、知名度も今より低かったことでしょう。

散り様で人気を呼んだ、熱い猛将でした。

又兵衛が落ち延びたという伝説のある大宇陀本郷にある又兵衛桜(奈良県宇陀市)

文:小檜山青




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【参考文献】
国史大辞典
『全国版 戦国武将人物辞典』

 



-豊臣家, 黒田家, 大坂の陣

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