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【後藤又兵衛基次】
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「大坂の陣」に参戦
又兵衛は、浪人として大坂に身を落ち着けました。
そのあとを黒田家が探索してきて、又兵衛の子を捕縛します。
豊臣秀頼は、浪人であろうと、大坂に住むものはわが民である――と基次父子を庇いました。
又兵衛が大坂方に馳せ参じたのは、その恩義ゆえともされます。
あるいは、腕のふるいどころ、はたまた死に場所を求めてなのでしょうか。
又兵衛のような浪人は、当時不満を抱えていました。
食い詰めており、腕を見せる機会もない。
そんな浪人たちにとって、大坂方は晴の舞台です。
元は豊臣恩顧であっても、大名やその家臣で大坂方についたものは、ほとんどおりません。
忠義を見せるためというよりは、生きてゆく場所を失い、追い詰められて、集ってきたのです。
そんな中でも、際だっていたのが又兵衛を含めた以下のメンバーです。
失うものは何もない、そんな浪人たち。
一方で攻め手の東軍は、15年間という実戦ブランクのせいか、ありえないような恥ずかしいミスを連発してしまいます。
数の上では優勢なのに、無様な崩れ方や味方討ちをしてしまうこともしばしば。
又兵衛は、秀頼家臣の木村重成とともに鴫野・今福を守備。上杉景勝・佐竹義宣勢と対峙しました。
このとき、佐竹義宣の軍勢を大いに破り、名をあげます。
摩利支天の再来――。
人々はそう賞賛したのです。
又兵衛は猪突猛進だけの将ではありません。
茶臼山にいた徳川家康への狙撃を止めて、二心があるのではないかと疑われています。
もしここで、家康を狙撃するようなことがあれば決裂は決定的でしたから、その判断は正しかったのではないでしょうか。
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衆寡敵せず――大坂夏の陣に散る
又兵衛はじめ、真田信繁らが華々しい活躍を遂げた【大坂冬の陣】。
一旦講和したものの、翌年には早くも講和が破れてしまいます。
こうして始まったのが【大坂夏の陣】です。
ただ、この再戦にあたって、大坂城は講和の際にほぼ無力化されており、苦戦は必至でした。
又兵衛は、真田信繁らとともに積極的に討って出る策を提案。
家康が住吉に着陣する日に夜襲を仕掛ける奇襲戦法を提案します。
しかし、大坂城の首脳部である大野治長らは消極的であり、反対されてしまうのでした。
又兵衛は、大野治長の元で戦うことになりました。
実戦経験の乏しい治長に、又兵衛は献策します。
「数で劣るからには、開けた地形で戦うには不利です。高低差のある山岳で、勝負を仕掛けましょう」
又兵衛は、秀頼から「大和口」の先手を命じられます。
そして、河内道明寺に兵を進めました【道明寺の戦い】。
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しかし、当初予定していた国分村は、既に徳川方先鋒・水野勝成が率いる部隊が進出していました。
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やむなく次善策として、小松山に布陣。寡兵ながらも健闘し、賞賛を浴びます。
が、又兵衛の後が続かないのです。
後詰には、後続の薄田兼相、明石全登、真田信繁らの軍がおりました。
彼らが駆けつけようとしたとき、濃霧が発生。
一方で、敵の伊達政宗の重臣・片倉小十郎が指揮を執る鉄砲隊が到着します。10倍以上という圧倒的な火力に叶うすべもありません。
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又兵衛は最期の咆哮をあげるように突撃を繰り返し、乱戦の中で命を落としました。
享年56。
又兵衛の子は、慶安2年(1649年)、大坂の代官所に捕縛されたと伝わります。
又兵衛の人気が長政の人気も下げた?
「大坂の陣」に散った後藤又兵衛、真田信繁らは、後世の人々にとって叛骨のヒーローとしてもてはやされました。
彼らに喝采を送ることは、徳川政権にぶつけられる不満のガス抜きにもなっていたのです。
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その過程で、又兵衛の前半生における武功も強調され、愛されました。
割を食ったのが、彼の元・主君である黒田長政です。
確かに長政は、性格的に問題が無いとは言い切れなさそうです。
が、戦国~江戸時代初期には、個性豊かなれど人格的にどうか?という方も多々おります。
酔っ払って家臣をブン殴ったり、様々な問題行動を起こした伊達政宗さんとか。キレやすい細川忠興さんとか。
一方で長政。
大人げなく陰湿、酷いときは短絡的で愚かという印象すら受けてしまうのは、一つ目に父・黒田官兵衛が偉大過ぎること。
そして二つ目は「後藤又兵衛をねちっこくいじめた挙げ句、再就職を阻んだパワハラ上司」という印象があるからでしょう。
そこは冷静に考えてみたいものです。
又兵衛にも、大人げない振る舞いはあったのです。
もし又兵衛が出奔せず、黒田家臣として一生を全うしていたら――大坂の陣で散ることもなく、知名度も今より低かったことでしょう。
散り様で人気を呼んだ、熱い猛将でした。
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文:小檜山青
【参考文献】
『国史大辞典』
峰岸純夫/片桐昭彦『戦国武将合戦事典(吉川弘文館)』(→amazon)
ほか