富永商太・絵

信長公記 前田家

前田利家62年の生涯をスッキリ解説!若い頃は信長とイイ仲だった!?

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加賀百万石と言えば前田利家ーー。

信長・秀吉と共に大出世を遂げた大大名ですが、実はこの利家、若き日は猛々しい武闘派武将であり、まさしく戦場を駆け回るタイプでした。

その頃の利家をざっと三行でマトメますと……。

【若き日の前田利家】

・信長側近のエリート集団「赤母衣衆」を引っ張る

・信長お気に入りの茶坊主をたたっ斬る→謹慎

・謹慎を解いてもらうため戦場で敵の首を取りまくる

いかがでしょう?

この三行マトメだけ読むと
「もしかして暴れん坊タイプかーい!」
という印象を受けると思います。

では次は前田利家の生涯を、三期でマトメてみたいと思います。

【前田利家の生涯】

第一期:織田信長の側近で大暴れ

第二期:柴田勝家のもとで北陸平定

第三期:天下人秀吉の親友かつ有力家臣

信長に始まり、勝家、秀吉――まさに織田家の超中心人物たちと共に過ごしてきたことがご理解いただけると思います。

いわば天下統一事業を常に補佐してきたわけで、彼らに好かれた理由は何だったのか?
前田利家とはいかなる人物だったのか?

62年の生涯を追ってみました。

 

前田利家 若い頃は信長とLOVEな関係!?

利家は天文五~天文七年頃(1536~1538年)、尾張国愛知郡荒子村(名古屋市中川区)で生まれました。
生涯深い付き合いとなる豊臣秀吉とは、同い年かごくごく近い生年です。

父・利春(利昌)が織田弾正忠家に仕えていたため、利家も幼いときから織田信長に仕えました。

長じてからの利家は推定182cm、かつ細身の美丈夫だったといわれているため、おそらく子供の頃から目を引くような容姿だったのでしょう。

いつ頃からなのかは不明ですが、信長と衆道関係にありました。

これは後年になって本人が認めているため、事実と思われます。日頃の行いもさることながら、そういう意味でも信長の目に留まったのでしょうね。

 

初陣は天文二十一年(1552年)【萱津かやづの戦い】でした。

元服前ながら、自ら朱色に塗った目立つ槍を振るい、首を挙げてきたといわれています。

背丈も当時としては相当な大きさなため、力自慢でもあったでしょう。
ゆえに「槍の又左」とも呼ばれておりますよね。

実際、初陣を終えた後に信長から
「犬千代は肝に毛が生えておる」
と称賛された程の戦いぶりだったとか。

萱津の戦いは以下に詳細がございますのでよろしければご確認を

萱津の戦いで勝家も活躍~戦国初心者にも超わかる『信長公記』第11話

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右目の下に矢を受けたまま敵陣へ(まるで夏侯惇)

初陣から4年後の弘治二年(1556年)。
信長が弟の織田信行と軍事衝突しました。

稲生の戦い】と言います。

鬼柴田として恐れられる柴田勝家が、まだ信行派だった時代。
利家は信長サイドで戦いました。

このときの活躍が圧巻でして。
右目の下に矢を受けながらも、そのまま敵陣に飛び込んだといいます(まるで夏侯惇)。
しかも、その矢を射た本人を討ち取ったのだとか。

利家の勇猛さが窺える話でありましょう。
もちろん、これも信長に大いに褒められ、味方を鼓舞することになりました。

「利家はそのまま、矢を抜かずに首実検に参加していた」という話もあるのですが、さすがにちょっと信じがたいですね。
このとき隻眼になったという説もあるのですが、定かではありません。

しかし、活躍したのは間違いない話で、今回の功績で加増され、利家は初めて自分の家臣を召し抱えることができました。
そのうちの一人・村井長頼は、要所要所で利家と前田家の窮地を救うことになります。

なお、稲生の戦いの詳細もまた以下にございますので、興味のある方はご確認を。

稲生の戦いで信長一騎打ち!~戦国初心者にも超わかる『信長公記』第19話

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茶坊主の捨阿弥を信長の前でなで斬り!

松嶋菜々子さん主演で話題になった大河ドラマ「利家とまつ」。
その、まつ(篠原家)と結婚したのは永禄元年(1558年)のことです。

二人の母が姉妹、つまり利家とまつはイトコ同士であり、結婚当初から円満な夫婦だったようです。
翌年にはさっそく子宝に恵まれています。

しかし程なくして、公私共に順調に見えた利家を、思わぬトラブルが襲うのです。

信長の側近くに使える茶坊主の拾阿弥じゅうあみ
この男が、利家の刀のこうがいを盗み、更にはあろうことか利家を侮辱したのです。

笄というのは髪を整えたり、髪型を崩さずに頭皮をかくための道具です。
利家は若い頃から傾奇者としても有名でしたので、身だしなみには特に気を使い、愛用していたのでしょう。

このとき盗まれたのは、まつの父・篠原主計の形見の品でもありました。
利家にとっては、二重に大事なものだったのです。

当初、利家は怒りをこらえて信長に訴えました。

しかし、信長はなぜか拾阿弥を咎めることはせず、さらに佐々成政までもが拾阿弥の肩を持ったため不満と怒りは膨らんでいくばかり。

そしてとうとう、拾阿弥を自分の手で斬り捨ててしまうのです。
しかも信長の目の前で斬ったといわれていますから、当てつけもあったのでしょう。

当然、信長は大激怒。
一時は利家を死罪にしようとして、他の家臣たちになだめられ、出仕停止に留めておくこととなりました。

 

桶狭間で首3つ さらには森部の戦いで……

たとえ命が助かっても、武士は武功を立てて家臣や家族を養わなければなりません。
出仕停止は、いわば無職状態。生活は困窮します。

利家はなんとか許しを得るべく、密かに信長の戦に参加し、功績を挙げようとしました。

例えば、あの【桶狭間の戦い】に参加したときには敵の首を3つもとる大殊勲。
それでも許されず、今度は【森部の戦い】で足立六兵衛という少し名の知れた武将の首を取ると、ようやく帰参が許されます。しかも新たな所領も与えられました。

言葉で説明してしまいますとあっという間ですが、謹慎から復帰までにおよそ二年間。
子供も生まれていますので、妻のまつも相当の苦労をしたでしょう。

利家は、信長に勘当される前から「赤母衣衆」という織田家の側近エリートに選ばれていた可能性があり、普通に出世していれば生活苦などとは無縁のはずでした。

若き頃より赤母衣衆(馬廻衆)を務めるなど、信長の側で活躍し続けた前田利家、初陣像

そんなこともあってか、利家は生涯、この二年間のことを教訓としていました。

「落ちぶれたときに声をかけてくれる者こそ、本当に信用できる」

おそらくや豊臣秀吉もその中の一人でしょう。
さらには加藤家勝という武将にもお世話になっていたとか。

また、利家は後に自ら算盤そろばんを用いて計算もしておりました。
それもこの二年間で、相当お金に苦労したからだそうで……だから本ページトップのイラストでも左手に算盤を持っているんですね。

 

赤母衣衆として、常に信長の側にいて

無事に帰参を許された利家は、その後、織田家の主な戦いに参加していきます。

斎藤龍興を稲葉山城から追放し、岐阜城とあらためた【美濃攻め】に始まり、伊勢への侵攻や、浅井長政・朝倉義景らとの戦い。

野田福島の戦いでも本願寺相手に戦功を挙げておりますが、その割に、他の合戦であまり大活躍の話が聞かれないのは、前田利家が信長の馬廻衆として、主君のすぐ側で旗本を率いていたからと目されております。
一番槍を狙って敵に突撃するような立場ではなかったんですね。

なお、この期間の詳しい合戦の話は、織田信長のマトメ記事に詳しいので、以下、よろしければご覧ください。

織田信長は意外と優しい!? 本能寺の変まで生涯49年をスッキリ解説!年表付き

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そして、信長が岐阜に本拠地を移動した1567年から約10年後、利家にとっては運命の潮目が変わります。

天正三年(1575年)から、不破光治・佐々成政らと共に、北陸方面の責任者・柴田勝家の目付役として着任するのです。
不破・佐々・前田の三名は、府中三人衆とも呼ばれました。

柴田勝家/wikipediaより引用

佐々成政と前田利家は、長篠の戦い(1575年)で共に鉄砲奉行として活躍しており、越前でも同じエリアを府中三人衆で信長の代官のような役割で統治しております。

そして勝家の目付役も請負ながら、北陸方面軍での戦いに参加していくのです。

越前の一向一揆はすでに平定しており次は加賀へ。
一進一退を繰り返しながら、徐々に、諸衆を攻略していきました。

しかし、そう簡単にことは進みません。
越後から最強の敵が現れるのです。

そうです。
上杉謙信です。

 

軍神に襲われフルボッコにやられる

織田家の加賀侵攻に対し、当初、謙信は一向一揆を扇動するなどして対抗しておりました。
上杉家は北陸方面だけに注力すればよいのではなく、信濃の武田や上野の北条など、強敵と接するエリアが多かったからです。

が、その状況も武田信玄の死などにより変わりつつありました。

そして1577年、ついに柴田勝家率いる織田家の北陸方面軍とぶつかりました。
【手取川の戦い】です。

手取川の戦いとは?秀吉が勝手に戦線を離れて勝家が謙信にフルボッコ!

天 ...

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詳細は上記の記事に譲りますが、簡単に言うと
「味方を助けるため七尾城に向かっていたら城が陥落しちまった。仕方ないから引き換えしたら、手取川を渡ったところで軍神に襲われて木っ端微塵にされたぜ」
というものです。

織田家としては消化不良の敗戦だったんですね。
もともとこの合戦は、援軍に来ていた豊臣秀吉がいきなり戦線離脱をするなど、最初から雲行きの怪しい展開でした。

いずれにせよ、この手取川の戦いは柴田勝家の合戦という印象もありますが、利家も参加しており、おそらくや軍神の恐怖と屈辱を味わったことでしょう。


※松任城のすぐ南にある手取川が主戦場となった手取川の戦い

 

信玄に続き謙信も亡くなる信長の強運

織田信長は実力も凄いが運もハンパねぇ。
それを思わされるのが武田信玄の死のタイミングであり、そしてそのライバル上杉謙信でありましょう。

手取川の戦いでフルボッコにやられたその翌年の1578年、軍神と恐れられた謙信が突如亡くなるのです。

トイレで脳出血を起こしたと目され、跡継ぎも決めないままの死亡だったため上杉家では内紛が勃発し(御館の乱)、織田家にとっては最高の展開を迎えました。

※謙信の死については歴女医の馬渕まり先生が診断をしてくれております

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そうは言っても織田家も決して順風満帆とは言えませんでした。
1578年、有岡城の荒木村重に突如裏切られ、利家も同城への攻撃参加を命ぜられたのです。

前田利家は、いったん北陸を離れ、有岡城の包囲戦や三木城(播磨)の戦いに駆り出されます。
そして、その翌年に荒木村重が城を脱出し、有岡城の戦いが終わると、今度は柴田勝家と共に加賀平定に尽力し、無事にこれを平定します(1580年)。

合戦ばかりが続く織田家に、信長がご褒美のイベントを用意したのは、その翌年、天正九年(1581年)のことです。
織田家の各武将たちが着飾り、高価な名馬に乗って、京都の街をパレードする
京都御馬揃え
が開催されました。

前田利家は、これに越前衆の一人として参加。
名実ともに織田家の重臣として存在感を放ち、同年8月には、信長から能登一国を与えられて大名の仲間入りを果たしました。

「京都御馬揃え」は織田家の戦国大パレード!信長の狙いは何だった?

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能登入りして七尾城を築城した後も、攻撃の手を緩めず、6月3日には柴田勝家や佐久間盛政らと共に魚津城を陥落(魚津城の戦い)。
さらなる作戦を講じているところで、その一報は届けられました。

絵・富永商太

本能寺の変でした。
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