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前田利家62年の生涯をスッキリ解説!若い頃は信長とイイ仲だった!?

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本能寺直後は北陸で動けなかった

本能寺の変が起きると、北陸方面の諸将も迅速かつ的確な判断を迫られます。

元々、北陸方面に厚い体制が敷かれていたのは、越後の上杉家に備えるためです。謙信はおらず、御館の乱で一度は分裂していた同家も、上杉景勝と直江兼続のもと再び家中はまとっており、将兵の忠誠心は決して低くはありませんでした。

景勝も、自ら討ち死にする覚悟で織田家との対決に臨んでいました。

そんなに気合の入っていた上杉家の面々が、もし信長の急死を知ったとしたら……どうなるかは火を見るより明らかですよね。

攻守どころか形勢逆転さえ見えている状況の中、勝家の甥である柴田勝豊・佐々成政佐久間盛政などが仲違いをしてしまったといわれています。
また、勝家と成政の間にも、剣呑な空気が流れていたようです。

その間に立って仲裁したのが、利家だったといわれています。
結局、利家は能登の一揆勢力や反織田家の諸衆の動きに囚われ、その場から動けずに、明智光秀山崎の戦いで滅びるのでした。

本能寺の変から11日後、6月13日のことです。

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勝家と秀吉に挟まれて

利家は、たびたび他者の仲裁に動いたという記録が多々あります。
しかし、それだけに板挟みを味わったこともありました。

最大の問題は
・自身が共に戦ってきた柴田勝家

・利家の娘(豪姫)を養子入れさせるほど仲の良かった豊臣秀吉
という両者の争いに巻き込まれてしまったことでしょう。

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清須会議などを経て、利家にとっては旧友ともいえる間柄の秀吉と、北陸で共闘していた勝家が対立し、ついに軍事衝突に至ると、苦しい立場に追い込まれてしまいます。

最近では「秀吉の調略によって、利家は早い段階で勝家を裏切るつもりになっていた」という見方もありますね。

かくして天正十一年(1583年)、賤ケ岳の戦いが勃発して、勝家は妻のお市と共に自害、利家は生き残りました。
賤ヶ岳の戦いについては、秀吉が戦場から離れたのをキッカケに佐久間盛政が中川清秀の陣へ突撃し、その後、柴田軍に属していた利家が実質秀吉に味方をするようなカタチで戦線から離脱したことで、柴田軍が敗北しております。

詳細は、佐久間盛政の記事でご確認いただけると幸いです。

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最大のピンチ!末森城の戦い

1584年、豊臣秀吉と徳川家康の間で小牧・長久手の戦いが勃発。
前田利家は、佐々成政と北陸方面にとどまっておりました。

しかし、ここで前田家最大のピンチが訪れます。
秀吉と袂を分かった佐々成政が、突如、前田利家の末森城に襲いかかったのです。

同城は、規模はさほど大きくないながら、能登半島の付け根の部分という要衝に位置する重要な城でした。

※黄色い城が末森城の位置

地図をご覧のとおり、南(加賀)・北(能登)・東(越中)という三カ国への侵攻が可能。
利家にとっては金沢へ攻め込まれる危険性があり、佐々成政にとっては自領を防衛するための最前線基地になり得たのです。

そこで利家は、連絡が届くやいなや兵わずか2,500で救援に向かい、同城の防衛には成功します。
が、佐々成政との戦いは始まったばかりで、そのまま北陸で小競り合いを続けることとなりました。

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しかし小牧・長久手の戦いで秀吉と家康が手打ちになり、豊臣秀長豊臣秀次の援軍が利家のもとにやってくると、後ろ盾を失った佐々成政は敗北を覚悟。
ほどなくして秀吉傘下に降伏することとなるのでした。

 

晩年の秀吉に最も信頼され五大老に

それからの利家は、秀吉の友人かつ第一の家臣というような立場で、武働きと出世を繰り返していきました。

九州征伐などでは京・大坂の警護を担当し、小田原征伐や奥州出征の際には、戦だけでなく統治・外交でも能力を発揮しています。
武勇がよく話題になる利家ですが、丹羽長秀堀秀政のような万能タイプだったんですね。

朝鮮の役では渡海はせず、名護屋城(佐賀県)に駐留していました。

また、文禄元年(1592年)5月に朝鮮の首都・漢城府が落ちた時、自ら渡海しようと逸る秀吉を、家康と利家が諌止したといわれています。
この件に限らず、秀吉存命中の利家と家康は、政務などで協力することも珍しくありませんでした。

天正二十年(1592年)7月に秀吉の母・大政所危篤がもたらされ、秀吉が名護屋を離れたときも、名護屋にいる諸将の指揮などを二人で行っています。

慶長三年(1598年)3月の醍醐の花見には、正室・まつと参加しました。

そして、その翌月には老齢や病気を理由として、嫡子・利長に家を譲っています。
草津温泉(栃木県)へ湯治にも行っていたそうなので、寿命を意識して養生しようとしていたのかもしれません。

しかし、秀吉は家督の継承は認めても、利家が隠居生活に入ることは許しませんでした。
いわゆる「五大老」を任じたのは、利長に家督を譲った後の話。幼い秀頼の後見になることも頼まれ、大坂城にとどまることになります。

自分の家の仕事は手放していますが、隠居とは言いにくい状態ですよね。

ちなみに五大老、そして石田三成らの五奉行とは以下のメンバーになります。

【五大老】
・徳川家康
・前田利家
宇喜多秀家
・上杉景勝
・毛利輝元
小早川隆景が生きている頃は6名だった

【五奉行】
浅野長政
・前田玄以
・石田三成
・増田長盛
長束正家

 

家康を制するため誓紙を交わしたその後で……

慶長三年(1598年)8月に秀吉が逝去。
いよいよ利家の頭痛の種が増えていきます。

家康が伊達家や蜂須賀家に養女を嫁がせ、自分の勢力を強めようとしたからです。

秀吉はこれを防ぐため、生前に「大名同士の婚姻を禁ずる」と明確に決めていました。
それに逆らうということは、豊臣政権を守るつもりがない、と宣言したも同然です。

利家たち、豊臣家への忠誠が強い大名・武将たちにとっては、見過ごすことはできない事態となると、利家・家康双方の屋敷に、それぞれの派閥の大名が集まるなど、半年近く騒動が続きました。

徳川家康も、さすがに前田利家との全面対決は避け、互いに誓紙を交換することで和解としています。

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利家としては秀吉の遺志通り、家康や他の大名たちと共に、秀頼を守り立てていくつもりだったのでしょう。

しかし、その前に自身の寿命が尽きてしまいました。
家康との和解からおおよそ2か月ほど経った慶長四年(1599年)閏3月3日に、利家はこの世を去っています。

享年62。
政治的な場面では決して荒々しい言動をしなかった利家ですが、武将らしい気概は最後まで持っていました。

 

「閻魔でも牛頭馬頭でも相手にしてくれるわ」

利家とまつとの間でこんな話が残っております。

「貴方は若い頃からたくさん戦で人を殺めたので、後生が恐ろしゅうございます。どうかこの経帷子をお召しになってください」

「確かにわしは多くの敵を殺してきたが、理由なく殺したことも、惨い殺し方をしたこともない。だから地獄に落ちるわけがない。もしも地獄に落ちたなら、先に逝った者たちとともに、閻魔でも牛頭馬頭でも相手にしてくれるわ。その帷子は、お前が後からかぶってこい」

閻魔は言わずもがな閻魔大王で、牛頭(ごず)と馬頭(めず)はそれぞれ、牛の頭・馬の頭をした地獄の拷問人のことです。

「悪鬼羅刹相手だろうとまとめて戦ってやる」
という気概は、死の床にある人とは思えませんね。

勇猛さと、人の間に立って仲を取り持つという二つの面。
それが利家の大きな魅力だったのでしょう。

長月 七紀・記

【参考】
国史大辞典
『前田利家 (人物叢書)』(→amazon link
織田信長家臣人名辞典』(→amazon link
前田利家/wikipedia

 



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