絵・富永商太

前田家

前田利家(織田家の重臣)血気盛んな槍の又左は加賀百万石をどう築いた?

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本能寺直後は北陸で動けなかった

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当然ながら、北陸方面の諸将にも迅速かつ的確な判断が迫られました。

元々、北陸方面に厚い体制が敷かれていたのは、越後の上杉家に備えるためです。

謙信はおらず、御館の乱で一度は分裂していた同家も、上杉景勝と直江兼続のもと再び家中はまとっており、将兵の忠誠心は決して低くはありませんでした。

景勝も、自ら討ち死にする覚悟で織田家との対決に臨んでいました。

そんなに気合の入っていた上杉家の面々が、もし信長の急死を知ったとしたら……どうなるかは火を見るより明らかですよね。

攻守どころか形勢逆転さえ見えている状況の中、勝家の甥である柴田勝豊・佐々成政佐久間盛政などが仲違いをしてしまったといわれています。

また、勝家と成政の間にも、剣呑な空気が流れていたようです。

その間に立って仲裁したのが、利家。

結局、利家は能登の一揆勢力や反織田家の諸衆の動きに囚われ、その場から動けずに、明智光秀は山崎の戦いで滅びるのでした。

本能寺の変から11日後、6月13日のことです。

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勝家と秀吉に挟まれて

利家は、たびたび他者の仲裁に動いたという記録が多々あります。

しかし、それだけに板挟みを味わったこともありました。

最大の問題は

◆自身が共に戦ってきた柴田勝家

◆利家の娘(豪姫)を養子入れさせるほど仲の良かった豊臣秀吉

という両者の争いに巻き込まれてしまったことでしょう。

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清須会議などを経て、利家にとっては旧友ともいえる間柄の秀吉と、上司的存在の勝家が対立し、ついに軍事衝突に至ると、苦しい立場に追い込まれてしまいます。

単純に「秀吉の調略によって、利家は早い段階で勝家を裏切るつもりになっていた」という見方もありますね。

かくして天正十一年(1583年)【賤ケ岳の戦い】が勃発すると、勝家は妻のお市と共に自害、当然ながら利家は生き残りました。

賤ヶ岳の戦いについては、秀吉が戦場から離れたのをキッカケに佐久間盛政が中川清秀の陣へ突撃し、その後、柴田軍に属していた利家が実質秀吉に味方をするようなカタチで戦線から離脱したことで、柴田軍が敗北しております。

詳細は、佐久間盛政の記事でご確認いただけると幸いです。

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最大のピンチ!末森城の戦い

1584年、豊臣秀吉と徳川家康の間で小牧・長久手の戦いが勃発。

前田利家は、佐々成政と北陸方面にとどまっておりました。

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しかし、ここで前田家最大のピンチが訪れます。

秀吉と袂を分かった佐々成政が、突如、前田利家の末森城に襲いかかったのです。

同城は、規模はさほど大きくないながら、能登半島の付け根の部分という要衝に位置する重要な城でした。

※黄色い城が末森城の位置

地図をご覧のとおり、南(加賀)・北(能登)・東(越中)という三カ国への侵攻が可能。

利家にとっては金沢へ攻め込まれる危険性があり、佐々成政にとっては自領を防衛するための最前線基地になり得たのです。

そこで利家は、連絡が届くやいなや兵わずか2,500で救援に向かい、同城の防衛には成功します。

が、佐々成政との戦いは始まったばかりで、そのまま北陸で小競り合いを続けることとなりました。

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しかし小牧・長久手の戦いで秀吉と家康が手打ちになり、豊臣秀長豊臣秀次の援軍が利家のもとにやってくると、後ろ盾を失った佐々成政は敗北を覚悟。

ほどなくして秀吉傘下に降伏することとなるのでした。そして……。
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