前田利長

前田利長(高岡古城公園・富山県高岡市)

前田家

前田利長(利家の嫡男)加賀百万石への道!偉大な父を持つ二代目53年の生涯

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本能寺後は父と共に勝家→秀吉へ

近江で本能寺の一報を聞いた利長は、直ちに永姫を前田家の領地へ逃しています。

しかし利長がその後どうしていたのかが不明。

信長の次男・織田信雄に合流したとも、蒲生賢秀(氏郷のトーチャン)と一緒に蒲生家の本拠・日野城にいたともされています。

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普通こういうときって、奥さんの動向がわからなくなるものですけどね。不思議なこともあるもんです。

その後は父と共に柴田勝家につき、豊臣秀吉(当時は羽柴秀吉)と敵対することになります。

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ご存知【賤ヶ岳の戦い】ですね。

近江の琵琶湖沿いの賎ヶ岳で勝家と秀吉の両軍が長くにらみ合い、佐久間盛政の突撃で一気に戦況が変わったこの一戦。

戦局が決まる!という重要な場面で前田利家と前田利長が戦線を離脱し、勝負は一気に秀吉勝利へと流れました。

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なぜ前田家が現場を離れたのか?

その真相は今なお謎でありますが、柴田軍にとっては裏切りであり、秀吉にとっては朗報でしかなく、結果、前田家はこの一戦を経て豊臣家の揺るぎない重鎮へと取り上げられていきます。

利長もまた、豊臣政権下において【九州征伐】や【小田原征伐】で戦功を挙げていきました。

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その甲斐あってか、26歳のときには豊臣姓を許されるほどです。

順調すぎる出世を経て父も豊臣五大老の一人に数えられ、後に利長自身も後釜に据えられますが、それだけに秀吉と利家の死後における立場は非常に難しいものとなりました。

他でもありません。徳川家康の台頭です。

 

家康暗殺計画と加賀征伐

利家が亡くなったとき秀頼は7歳。

ということは、三年経てば10歳、数え年なら12歳になります。

まだまだ幼いとはいえ、秀頼が名実ともに豊臣家を担っていける年齢ですね。

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五大老の一つである前田利長がここでシッカリと秀頼を補佐すれば、どうなるか?

そのことを誰よりも懸念し、そして対処法を考えたのが家康でしょう。

慶長4年(1599年)8月、利長は父の死から半年後、金沢へ帰ってしまうのでした。

帰国の理由は「鷹狩り」とか、あるいは家康から「少し休んで地元の政治を進めなよ」と言われたとか、そんな伝承があります。

いずれにせよ、それが前田家にとっては運命の分かれ道となりました。

この帰国をキッカケに、利長による「家康暗殺計画」が表面化、前田家と徳川家の関係が悪化してしまい、一説には【加賀征伐(前田家の討伐)】が実行されそうになったというものです。

出典元が後世の史料のため「仮に家康を暗殺する計画があったとしても利長が関係した事実はない」として、加賀征伐そのものを否定する研究者もおりますが、兎にも角にも利長は、家康によって政権の中心から排除されるような形になってしまいます。

このころ別の五大老・宇喜多秀家も、同じく家康にやりこめられており、徳川家による政権簒奪が進んでいたのですね。

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