前田利長

前田利長肖像画と高岡古城公園の像(富山県高岡市)

前田家

利家の嫡男で加賀119万石を作った前田利長~関ヶ原をどう生き残った?

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母の芳春院(まつ)が人質になる

秀吉亡き豊臣政権において、着実に周囲を固めていく徳川家康

その家康との関係を悪化してしまった(あるいはそう追い込まれた)前田利長。

利長としては徳川との関係修復を願いつつ、単に弱気なばかりではなく、万が一合戦になったときも考えて動いていたようです。

と、そこで機転を利かせたのが、利家の死後、仏門に入っていたまつ(芳春院)です。

彼女は自ら「私が江戸へ行けば、家康は前田家を潰すことはできないでしょう」と、人質になることを申し出ました。

人質というのは、相手が手を出してきたときのために生かしておくもの。この場合だと前田家のほうから家康にケンカを売らない限り、まつの身に何か起こることはありえません。

年老いた母を差し出すことを、利長は最初ためらいましたが、熟考の末、他に方法がないことを悟り、まつを江戸へ送ります。

……なんて手短にまとめると、ストーリーとしては非常に面白いものですが、実際は前田家と徳川家で事前に入念な交渉があったと考えるほうが自然なようです。

というのも、母を人質として送る代わりに、前田利長は妻の永姫(玉泉院)や実弟・前田利政を国許へ戻らせることに成功しているのですね。

加えて、異母弟で養子にしていた前田利常と珠姫(家康の孫で秀忠の娘)を結婚させることにも繋がりました。

人質を出した上に縁戚になったからには、前田家も徳川家も互いに手荒なことはできません。

それと引き換えに、力関係の上で前田家は、徳川家の傘下に入ったも同然になりました。

ちなみに、まつは慶長19年(1614年)まで江戸での生活が続いています。

 

関ヶ原では東軍か西軍か

関ヶ原の戦い本戦に関しては、前田利長の意図はハッキリしていません。

出陣はしているのですが「丹羽長重を討とうとした」のか、「西軍本隊に対処するためだった」のか、その真意を測りかねるとも言われたりします。

しかし、実際は東軍であったのでしょう。

理由は2つあります。

1つ目は、会津若松の【上杉征伐】です。

石田三成の挙兵を促すことになった徳川軍主体の東北遠征として知られますが、このとき利長は日本海側を進み、米沢経由で会津へ攻め込む算段があったとされます。

当初から東軍サイドでなければそうはならなかったでしょう。

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そして2つ目。

上杉征伐の後に三成が挙兵したとき、利長は家康に上方へ来るよう上京を要請しているのです。

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その際、三成から前田家に対しては、当然ながら「西軍への参戦」を求める書状が届きますが、ここで利長が明確な返答をしなかったことから「関ヶ原での立場がわかりにくい」と指摘されます。

しかし、実際には家康方となって行動しているのが、後の進路からもわかります。

関ヶ原の戦場には出向いていないものの、上方へ向かう途中の慶長5年(1600年)8月に西軍・山口宗永の籠もる大聖寺城を攻略。

さらには同年8月、【浅井畷の戦い】で西軍だった丹羽長重と戦っています。

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関ヶ原の本戦には間に合わなくとも、十分に戦功は挙げていたのですね。

 

妹・豪姫の夫である秀家を助け

ただし、全く問題がなかったワケではありません。

人質から取り戻したばかりの弟・前田利政が、途中から参戦を拒否したのです。

明確な理由は不明で、利政の妻が三成の人質になっていたからとか、大聖寺城での戦いで疲弊したからとか、複数の要因が挙げられます。

どんな理由にしても、その行動が許されることはなく、利政は改易に処されてしまいました。

前田家としては、不幸中の幸いだったかもしれません。

利政の領地・能登一国は、そのまま前田利長に加増され、前田家は百万石を上回る大大名へと発展していくのです。

ぜんぶ父ちゃん(前田利家)のお陰やんけ――。

なんて指摘されるかもしれませんが、権謀術数うごめく豊臣政権から徳川政権への移行で、76.5万石だった利家時代から119万石まで発展させたのは相当なことでしょう。

関ヶ原に敗北し、徳川の追手から逃れていた宇喜多秀家(妻が妹の豪姫)の逃亡を手助けしていた可能性も指摘されています。

結局、秀家は捕らえられて八丈島に送られますが、それ以降も前田家が物品の援助をしていたことはよく知られた話ですね。

実は秀家が亡くなった後も続き、少なくとも1868年までに76回の援助記録があるほどです。

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変わったところでは、徳川秀忠の乳兄弟をブッコロしてトンズラしていた本多政重(本多正信の次男)を召し抱えたりもしました。

政重はその後、一度前田家を離れて上杉家に奉仕するのですが、その後、利長が隠居してからまた加賀に戻っています。

そして利長の弟・利常をよく支えました。

ちなみに、政重が戻ってくるときに間に入ったのが藤堂高虎です。

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ここまで来ると利長の話からかなり離れてしまいますが、大藩前田家の礎を作った人物だけに、相応の政治外交力も備えていたということでしょう。

亡くなったのは大坂夏の陣があった慶長19年(1614年)。

享年53のことでした。

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長月 七紀・記

【参考】
大西泰正『前田利家・利長 (中世から近世へ)』(→amazon
峰岸純夫/片桐昭彦『戦国武将合戦事典(吉川弘文館)』(→amazon
前田利長/wikipedia

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