絵・小久ヒロ

三好家

松永久秀は爆死ではない!信長を二度裏切るが実は忠義の智将【年表付】

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痛恨、三好義興の死

軍事、内政、築城、文化、後継者確保、家臣団形成――。

三好長慶の天下取りが見え始めると、当然ながら足利義輝は不快感を募らせていきました。

永禄6年(1563年)は、激動の年でもあります。

3月に、長慶の宿敵・細川晴元が死去。

このとき引退状態だったとはいえ、ひとつの時代の終わりではあります。

そして6月、今度は三好義興が急死してしまったのです。

三好義興/wikipediaより引用

享年22という若さ。若くして実力者が急死となると、毒殺説があるものです。

その容疑者筆頭が久秀です。

医学が発達していない時代のこと。食中毒やアレルギーといった死因でも、不審死にされてしまいます。

ここではっきりと主張したいのが【久秀は無実である】ということ。

柳生家の記録では、深く悲しむ久秀の様子が残されています。義興の唯一無二の相談役を任されていたのですから、その方が自然ではありませんか。

後継者の選択も、複雑怪奇といえばそうではあります。

三好一族の十河一存(そごうかずまさ)の長男・三好義継とされました。他に三好の血を引く男子がいた状況からすれば、不思議な流れにも思えます。

ただ、これも理由はシンプルなものではないでしょうか。

義継の母が、前関白・九条稙通(くじょうたねみち)の養女であったのです。

日本ではキリスト教圏とは異なり、正室以外が母でも継承権があります。

徳川将軍家の継承を見ても、母の身分については問われてないような気もします。

が、実際のところ、その家に複数の子がいる場合は、母の血が重視されるものです。

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天皇に近い家格をアイデンティティとして、将軍の座すら狙っていた三好家ですから、前関白の血は重要な要素でしょう。

義興の死は、久秀にとってはチャンス到来どころか、大きな失望そのもの。

支える主家の後継者を失ったのです。

しかも、自身は還暦まであと数年の56という年齢でした。

もはやチャンスはない。

久秀は、息子の久通に家督を譲り、人生の黄昏を見つめることになりました。

いやいや、大暴れの本番はここからでしょ!

期待してますよ、悪事の数々を!

そう後世の人々から期待をされて、彼の魂は何を思うのか……。

 

三好長慶の死 そして「永禄の変」

永禄7年(1564年)、三好家後継者の三好義継が上洛し、その年に長慶が死去しました。享年42。

死の状況は、はっきりとはわかりません。死そのものが秘匿の形跡すら見られます。

これがもしも、太平の世であれば、代替わりのダメージはそこまで大きくはないでしょう。

しかし、下剋上の世とはそうはいきません。

義継はまだ若いのです。

三好義継/wikipediaより引用

久秀も、そのことを痛感していたのか。

朝廷への進物が増えています。権威を背景に、傾きかけた屋台骨を支えたい――そんな思惑があったのでしょうか。

しかし、これをチャンス到来と感じる勢力もおります。

いったい誰か?

長いこと敵対してきた足利義輝です。

重石である三好が軽くなり、途端に義輝の動きが活発化しました。

そして1565年5月18日――。

1万の軍勢を率いて上洛した三好義継たち三好勢が、二条御所を取り囲み、結果として義輝が死亡した【永禄の変】が起きたのです。

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犠牲者の中には、義輝の母、弟、側室の父、奉行衆が含まれていました。

刀を手に取り、奮戦する剣豪将軍・義輝の姿も印象的であり、非道な弑殺(主君を殺すこと)とされますが。

果たしてどうなのでしょうか?

ここでは松永久秀の弁護をしたいと思います。

◆久秀は参加しているのか?

→実行犯は家督を譲った息子の松永久通です

◆三好あっての義輝ではないのか?

→将軍位についてから、21年の在位期間のうち6年しか在京していません。それも三好の庇護あってのことでした

◆義輝の態度や朝廷との関係は?

→朝廷との関係も良好とは言えず、改元に背くようなルール違反もしばしば。殺害当初こそ前代未聞のこととされたものの、次第に理解が示されるようにすらなっていた

そして最も注目すべき疑念がこちらです。

「二条御所を取り囲んだのは、はじめから殺害目的だったのか?」

後世の目線から見ると、どうしても義輝とその関係者殺害に注目してしまいます。

ただ、動機がそこなのか。回避できない状況で最悪の事態に陥ったのか。ここに注意が必要です。

他の事例を見てみましょう。

◆中国・荊軻の場合

荊軻による始皇帝暗殺は、匕首を手にして要求を通すものでなかったのか。そんな解釈もできます。

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◆日本【禁門の変】の場合

結果的に京都を大炎上させる惨劇となりましたが、最初からそのつもりではありませんでした。

長州藩は、武力を背景に自分たちの要求を通そうとしたことが契機でした。

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武力を伴う上洛が成功しているのは、薩摩藩・島津久光です。

こうした事例をふまえますと……。

【三好義継当初の目的は「御所巻」だった】

と考えられるのです。

「御所巻」とは、室町幕府に対し、武力を背景に大名が要求を通すという慣習です。

日本では室町時代独自の恐ろしい蛮行とみなす意見もあるようですが、武力を背景にした要求は、古今東西普遍的にみられる手段ではあります。

治安悪化を伴うことではありますが。

永禄の変は、この「御所巻」が通らなかった結果、暴発して弑逆に至った。それこそが前代未聞であった。そういうことではありませんか。

戦争とは、征服ではなく、政治や外交手段の延長ともみなせます。クラウゼヴィッツが『戦争論』でそう定義していますね。

ただ、それにはリスクを伴う。

『老師』には、
【兵者不祥器 兵は不祥の器】
とあります。

要求を通すために武力を誇示すれば、こうしたリスクが伴います。手出しをするなという、そんな教えですね。

「永禄の変」とは、まさしくこうした武力行使がもたらした悲劇の一例ではないでしょうか。

足利義輝は命を落とし、松永久秀は名声を決定的に落としてしまうのです。

ただ……本当に偶発的な事故であったとも言い切れない。

ここが難しいところではあるのです。

 

倒幕、易姓革命のたくらみ

疑念は残ります。

義輝は、命にかえてでも三好からの要求を断った。

それは何であったのか?

命をかけてまで守りたいものとは、何であったのか?

それは将軍の地位ではなかったのか?

室町幕府そのものではなかったのか?

義輝弑逆は、望まざる結果であったかもしれませんが、倒幕そのものを目指した形跡はあります。

◆清原枝賢の従軍

軍勢の中には、儒学者・清原枝賢がおりました。

軍事的に使えない文人でも、大いに価値はあります。

理論武装です。

「易姓革命」を表明するため、儒学者の頭脳は必須なのです。

曹操が檄文作家・陳琳を厚遇したように、天下を変えたい者は学者を軍勢に加えるもの。

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◆改名

本稿では混乱を避けるため名前を統一していますが、以下の2名は義輝死後に改名されました。

・三好義重→義継

三好義継は、改名しても「義」を入れました。

これはいわば、足利家から「義」の偏を踏襲した――将軍家の地位を継いだと表明したことになります。

・松永義久→久通

久秀の息子は、将軍家の偏諱「義」を否定しました。

こうした例は、東北の伊達家でも同様の状況があり、伊達輝宗は我が子に対して将軍の偏諱を用いず、中興の祖と同じ「政宗」と名付けております。

我が子への期待もありますが、輝宗はもはや足利家の権力を頼る時代ではないと感じていたのでしょう。

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ただし、我が子・久通の行動に父・久秀が理解を示したか?

というと、そうとは思えません。

久秀は、義昭を殺そうとする久通を止めるばかりか、義昭を保護したのです。

改めて状況を確認しますと……。

◆義輝殺害の実行犯は誰か?

三好三人衆(三好長逸・三好宗渭・岩成友通)は、コンビ成立前で不可能。

松永久秀は、現場である京都にすら出陣の形跡なく、これも不可能。

まず、彼らは除外できます。

松永久通は可能です。

では、彼の背後に父・久秀の意思があったのか。

ここが焦点となりますが、もはや久秀は家督を譲っており、必ずしもそうであるとは考えられません。

この時代、父子の意思が一致しているとは限らない。

それどころか久秀は、久通が殺そうとした義昭を保護しているのです。

 

義昭、そして燃える大仏殿

倒幕の意思があるのなら、将軍家の血を引く義昭は不要。殺害こそが理にかなっている。

久通の行動からはそれが窺えます。

一方、人生経験の長い久秀から見れば、三好義継と久通の行動はあまりにハードランディング。義昭を傀儡として、生かさず殺さず、ソフトランディングにした方が好都合とみなしたのでしょう。

義昭保護を幕府の忠誠心や、人間としての親切心とみなすには、無理はあります。

しかし、これが厄介な事態につながっていくのです。

義輝の死後、三好家と松永家は京都の治安維持、回復にあたります。

義昭というカードを庇護することに、久秀は失敗してしまった。

義昭は、なんと奈良経由で朝倉義景と手を結び、近江・和田城へと出奔してしまったのです。

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切り札となる義昭を、みすみす逃してしまった――そうなるくらいならば、始末しておくべきだったのでは?

そう指摘されても仕方ない、松永久秀の失態とみなされました。

なぜなら義昭というカードを得た大名は、忠臣として、奸臣・三好家を討つ大義名分を得られるのです。

反三好勢力は勢いづきました。

これも全ては松永氏の失態。

三好家の家臣からそんな声があがり、ここに「三好三人衆」が台頭し、こんな構図が出来上がりました。

松永久秀・久通
三好義継
vs
三好三人衆

あろうことか彼らの争いは日本の政治の中心地で行われてしまいます。

結果から言いますと……。

永禄10年(1567年)10月、「東大寺大仏殿」が焼け落ちました。

わざとじゃないのです。

大仏を燃やしたかったわけじゃない。

三好三人衆が大仏殿の側にいて、戦闘の結果、大仏が巻き込まれただけなのです。

市街地戦の結果、焼け野原となってしまった場合、誰の責任であるか問うことは虚しいだけではあります。

前述の通り、久秀は宗教を軽んてはおりません。

以前から手厚く保護しているぐらいで、日本初のクリスマス休戦も、三好三人衆との戦果くすぶる中、久秀が行ったものだったぐらいです。
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