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戦国一悲運の美少女・駒姫〜顔も見たことない秀次の連座で処刑される

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「歴史は楽しんでナンボ」
とは思いますが、中には凄惨さゆえにそう書けないことも多々あります。

文禄四年(1586年)8月2日、駒姫が殺された一件もそうでしょう。
関白秀次謀反の連座者として、その妻子が京都・三条河原で処刑されたのです。

近年の研究では「秀次が責任を感じて、秀吉に命令される前に自ら切腹したのではないか?」ともいわれていますが、そうであれば、なぜ幼い子供や妻まで全員処刑されてしまったのでしょうか?

鍵になりそうなのは、秀次の妻たちがどんな家の出身だったかということです。

 

名門出身の中に駒姫(最上家の姫)

豊臣秀次は、秀吉の親戚かつその傘下におりました。
が、何と言っても関白の地位にありますから、あっちこっちの大名や町人に顔が利くというか、影響力を持つのはまぁ当然ですよね。
そのため、秀次の妻には出自の良い女性が多くいました。

全部で何人いたのか?
それははっきりしないのですが、中には今出川晴季(はるすえ)という公家の娘・一の台や、大名の娘もいたといいます。

もしかすると、秀吉は「秀次の妻に名門出身が多い」=「秀次が独自の勢力を作り、自分から実権を奪おうとしている」といった行き過ぎた想像をしてしまったのかもしれません。
幼い豊臣秀頼に跡を継がせたいあまりに、その妄想がエスカレートして「やらなければやられる」と思い込んでいたのでしょうか。

その辺の真偽は神のみぞ知るところですが、秀次自身、切腹したときにはまだ27歳でしたので、妻たちも同等もしくはもっと若い人ばかりだったことがさらに悲劇に拍車をかけました。

最も有名な悲劇は、山形の大名最上義光の娘・駒姫でしょう。

 

東国一の美しさで知られていた

駒姫はお伊万いまの方とも言われ、生まれつき美少女ということで有名でした。

しかし何事も行き過ぎると良いことばかりではないようで、「東国一」の美しさいう噂が広まると、遠く畿内の秀次から「ぜひ側室にしたい」と望まれてしまいます。

幼い姫を山形から京都へ送るのは気が進まなかった義光は、「せっかくのお申し出ですが」と一度は丁重にお断り。
ところが、です。妙なところで頭の柔らかい秀次は、「ならば15歳になってからでよい。必ずよこせ」と言ってきてしまうのでした。

当時の15歳といえばまさに結婚適齢期ですからね。
天下人を相手にして、これにはさすがに義光も断りきれず、泣く泣く引き受けることになります。

そして駒姫が15歳になったのが、あろうことかこの文禄四年のことでした。

 

このときばかりは淀殿も駒姫に味方したが……

約束通り故郷の山形から遠い都へ旅立ち、やっと着いた最上家の京屋敷。
しばらく疲れを癒していた彼女の元に、突然「秀次切腹」の知らせが届きます。

続いて、妻子も連座で処刑することが決まり、他の秀次の妻たち同様、駒姫も引き出されて斬られてしまったのです。

むろん最上義光も、娘の命を救うため、必死になって駆けずり回りました。
秀次が切腹した7月15日から処刑までの約半月、大名や知人、親類縁者に助命を掛け合ったのです。

淀殿も、このときばかりは駒姫に味方したといいますから、たぶん最終判断を下した秀吉以外は全員が反対していたことでしょう。

一説には、「秀吉が折れて『駒姫は鎌倉へ送り尼にせよ』という早馬を送ったが間に合わなかった」とも言われておりますが、果たしてどうだったやら。

他にも駒姫と同世代の側室はたくさんいたのですが、彼女の場合
【京都に着いたばかりで、秀次とは直接顔を合わせてすらいなかった】
わけですから、より一層悲劇の度合いを増しています。
あまりに理不尽な話です。

さらに、駒姫の母はこの知らせを受けた直後、8月16日に亡くなってしまいました。
こちらの詳細もはっきりしないのですが、娘の死に衝撃を受けて自害した可能性も……。

義光は、後に関が原の戦いで徳川方についていますが、こんな経緯ではそうしたくもなろうというものです。

 

普通なら尼さんにするのが筋

そもそも、いくら連座とはいえ、多くの場合は子供を処刑しても妻は他の家に嫁がせるか、尼にするのがセオリーでした。

息子を殺されても京都に送り返された【静御前】や、浅井家が滅んだ後、織田家に帰ってきた【お市の方】など、そういう例はたくさんあります。

ですから、秀次事件のときも妻だけは助けても良かったはずなのです。
また、自髪を下ろして尼になった女性が何人かいました。

それを「秀次に関わったから」というだけの理由で、隅から隅まで処刑するというのはどう考えてもおかしな話ですよね。
もし、今出川晴季が朝廷に助命嘆願をしていたら、勅命で止められたかもしれませんが……。朝廷は朝廷で秀次の妻子が殺されたところで痛くもかゆくもないですし、難しいですかね。

しかも、彼女達の悲劇はまだ終わりません。

ここから何年後のことなのかはっきりしないのですが、京都の豪商・角倉了以すみのくらりょういが三条河原周辺の治水事業をした際、秀次の首と妻子らの遺体を放り込んだ塚が見つかったそうなのです。

了以は慶長十九年(1614年)に亡くなっているので、処刑されてから30年も経たずに、秀次たちの塚はすっかり忘れられていたということになりますよね。
ほとんど不要なみせしめのために処刑された上、同時代の人にも完全に忘れられてしまうなんて、「ひどい」という以外に何と言い表せばいいのでしょうか。

了以もその有様を哀れみ、瑞泉寺という京都のお寺に「秀次悪逆塚」と書かれた碑の「悪逆」を削って、改めて供養してくれるよう頼んだそうです。いい人や。

 

秀吉一連の悪行・悪政はボケが原因だったのか

代々の武家ではない秀吉にとって、天下人になった後、最優先で進めるべきことは一族や政権の地固め・足固めでした。

源氏も足利氏も、身内の揉め事を処理しきれなかったがために長く実権を保つことはできなかったですし、政権の根幹となる親族を信じられない上に自ら処分してしまうのでは、どうしようもありません。

まさか、太閤にまでなった秀吉がそれをわからなかったはずはないでしょう。
と考えると、やはりこういった秀吉の一連の悪行・悪政はボケの弊害の可能性が高そうです。

せめて頭がしっかりしているうちに「秀頼が長じるまでは秀次!」と決めておき、親族である秀次がにらみを利かせ、さらにその脇を秀吉の子飼い武将たちが固める体制を取っておけば、豊臣政権はもう少し長持ちしたのではないでしょうか。

まぁ、石田三成一派と加藤清正福島正則らとの確執もありますし、家康の台頭を秀次が抑えきれたのか?というと怪しいところですが、何にせよ

長月 七紀・記

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【参考】
『戦国武将合戦事典』(→amazon link
駒姫/Wikipedia
豊臣秀次/Wikipedia
瑞泉寺/京都観光Navi

 



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