こちらは3ページ目になります。
1ページ目から読む場合は
【厳島の戦い】
をクリックお願いします。
お好きな項目に飛べる目次
お好きな項目に飛べる目次
元就&隆元らと隆景が二手に分かれ
作戦決行の夜――。
予想外の荒天に見舞われながらも、毛利側は二手に分かれて進軍を開始します。
「三本目の矢」こと小早川隆景が船で島の正面へ向かいました。
もちろん、隆景はそのまま戦ったわけではありません。なんと「陶さんに加勢に来ました!(キリッ」と大嘘をついて無事上陸を果たすのです。
-
小早川隆景(元就の三男)はキレ者よ~王佐の才は毛利や秀吉に重宝され
続きを見る
小気味良いくらいの清々しい嘘ですね。さすが親子。
そしてこっそり宮尾城の味方と合流します。
そして嵐も収まった翌朝10月1日、ついに毛利の逆襲が始まります。
前から後ろから容赦なく攻め立て、数で勝る陶軍を見事に大混乱へ叩き落しました。
我先に助かろうとして、無事な兵も互いに船を奪い合い、沈没あるいは溺死者が続出します。
無事出航した船も村上水軍によって討たれてしまいました。
そんな状態ですから、奥まった本陣にいる晴賢が船に乗ろうとしても当然残っているはずがありません。
ついに諦めた晴賢は、大江浦(別説として高安原)で自刃しました。
毛利氏の本姓が大江氏であることを考えると、なかなか因果なものを感じますね。
ちなみに晴賢を引き止めてくれた弘中隆包(ひろなかたかかね)は、その後も2日間粘り続けましたが、最後の一兵まで戦い全滅しました。
戦場となった聖域をきちんとお掃除した元就
こうして後に頼山陽が【日本三大奇襲】の一つとした厳島の戦いは、毛利側の完全勝利となったのです。
陶軍の死者は4,000人を超えたといわれており、毛利方の兵数とほぼ同等。
諸説ありますが、これは全軍からみた割合だとおおよそ1/4~1/8弱に該当します。
現在の軍事的にいえば「全滅」が「直接戦闘する兵の3割が死亡」であり「壊滅」が(同じく5割が死亡)にあたります。
ちなみにこの上は「殲滅」(全員死亡)しかありませんので、毛利軍のパーフェクト完勝ぐらい凄まじいものでした。元就さんマジパネェ。
そして元就の凄いところは、戦後処理も見事だったことでしょう。
特に厳島の戦いの後は、神域を汚したお詫びとして社殿を洗い清めた上、島表面の土を削り落として徹底的に血の臭いを消したそうです。
その後も社殿の整備や島の保全に勤めるなど、万全なアフターフォローをしています。
そのおかげか、神社側が毛利家を責めたとか、朝廷からお咎めを食らったとかいうことはなかったようです。
さすがに一代で地方領主から8カ国の支配者になった方ですね。
元就さんの生涯をご覧いただきたい方は、以下の記事も合わせてご覧ください。
あわせて読みたい関連記事
-
毛利元就の手腕鮮やか!一体どんな策や合戦で中国地方8カ国を支配したか?
続きを見る
-
陶晴賢(戦国大内家の重臣)が下剋上した理由はオトコの嫉妬か権力欲か
続きを見る
-
大内義隆(西国一の戦国大名)はなぜ陶晴賢に滅ぼされた?45年の生涯まとめ
続きを見る
-
大友宗麟(大友義鎮)は戦国の九州王者か非道の暗君か!58年の生涯まとめ
続きを見る
-
毛利隆元(元就の長男)失って初めて実感する毛利跡取りの偉大さ優秀さとは
続きを見る
-
吉川元春(毛利元就の次男)が熱い!11才で初陣を飾った勇将と奥様に注目
続きを見る
-
穂井田元清(元就の四男)は“虫けら”ではない! 謀将子息の知られざる功績
続きを見る
-
小早川隆景(元就の三男)はキレ者よ~王佐の才は毛利や秀吉に重宝され
続きを見る
-
毛利家・五龍局(元就の娘)が弟・元春の妻と超冷戦!? 小姑と嫁の関係は難しい
続きを見る
-
清水宗治と備中高松城の水攻め~戦国時代に武士の鑑とされた切腹劇
続きを見る
-
毛利秀元(元就の孫)は初陣【文禄の役】で毛利軍3万の総大将を務めた智将也
続きを見る
-
戦国を生き抜いた秘訣は禁酒 なぜ元就は75歳まで長生きできたのか
続きを見る
-
一ノ谷の戦い(鵯越の逆落とし)がわかる!源平合戦の趨勢を決めた一戦
続きを見る
-
源義経31年の儚き生涯まとめ! 兄・頼朝とすれ違い続けた悲しき英雄とは
続きを見る
-
源範頼(頼朝の弟)の不審死~10人以上いた兄弟で消されたのは義経だけでなく
続きを見る
長月 七紀・記
【参考】
『戦国武将合戦事典(吉川弘文館)』(→amazon)
『戦国人名辞典(吉川弘文館)』(→amazon)
『戦国人名事典(新人物往来社)』(→amazon)
『戦国時代人物事典(学習研究社)』(→amazon)
国史大辞典
厳島の戦い/wikipedia