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吉川経家が秀吉軍に囲まれ壮絶な籠城戦~鳥取城渇え殺しと“ひらがな”の手紙

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城兵・住民の命を助ける代わりに切腹

10月に入り、

「これ以上は無理だ……」

と判断した経家は、自らの切腹と引き換えに城兵と農民の助命を申し入れました。

経家は非常に責任感の強い人物だったようです。

秀吉から「経家は責任取らなくてもいいよ。代わりに何人か別の人に切腹してもらうから」(超訳)と言われたのを断り、結局、その”別の人”たち(森下道誉もりしたどうよ・中村春続)と共に自害しています。

石見から鳥取へ来る際に自ら首桶(取った御首を入れる桶)を用意していたとも言われているので、負けると決まったら即座に死ぬつもりでいたのでしょう。

『そこまでするならとっとと降伏すれば……』

そう思われた方もいらっしゃるかもしれませんが、責任感が強いだけにさっさと城を明け渡すこともできず、経家は義務と人道の間で板ばさみになっていたものと思われます。

そもそも経家個人の思惑だけで戦局を切り開ける場面ではありませんでした。

 

吉川経家の涙を誘う遺書とは……

経家は、切腹を控えて父・吉川経安(つねやす)や吉川広家(吉川元春の息子)、家臣たち、子供達へそれぞれ違った遺書を書いておりました。

彼の心境を詳しく伝えてくれています。

大人たちへは候文(そうろうぶん・語尾に「候」をつけて書く文体)で書いており、広家には詳しい報告を入れ、家臣に対しては「俺たちが責任を取るから、皆は生き残れ」(超訳)という簡潔なものでした。

父親には子供達の事をくれぐれもよろしくと頼んでいます。

余談ですが、父の経安は関が原の直後(慶長五年=1600年11月)まで長生きしていたので、晩年の秀吉の錯乱振りを見ていろいろ思うところがあったでしょうね。

子供へ宛てたものが一番特徴的で、ほぼひらがなで書かれています。

上記のような極限状態で「子供達が自分でが読めるように」とかな書きにする心遣い、それでいて脱字があるなど、経家自身も相当な混乱の中で書き記したことが生々しく伝わる遺書です。

内容を現代語訳しておきますと……。

「お父さん達は鳥取城で長いこと頑張ったけど、兵糧が尽きたからもうダメだ。

これからみんなを助けるためにお父さんは切腹する。

吉川家の名は上がるから、大きくなったらその幸せな話を詳しく聞いてね」

責任感の強さ、家名への誇り、子供たちへの愛情。

涙なくしては読めない内容です。

どれをとっても武士として立派な人物であったことがうかがえますね。

 

真っ白な歴史などないゆえに「かつ江さん」は必要では?

こうして経家と家臣たちが切腹して鳥取城は開城。

秀吉はまた一歩駒を進めました。

そもそも”飢え殺し”という字面だけでも穏やかではありませんが、これを映像で再現しようとするととんでもないことになりますので、大河ドラマですっ飛ばされてしまいがちなのは、ある意味致し方ないのかもしれません。

でも、やっぱりかつ江さんは必要じゃないかなと思います。

鳥取県では郷土の歴史として詳しく習うそうですが、全国的に見るとほぼ知られていませんのでいい機会ではないでしょうか。

どこかで復活できればいいのですが。

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長月 七紀・記

【参考】
国史大辞典
『山陰・山陽の戦国史 (地域から見た戦国150年 7)』(→amazon
『戦国武将合戦事典(吉川弘文館)』(→amazon
吉川経家/wikipedia

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