蒲生氏郷/wikipediaより引用

織田家

蒲生氏郷は織田軍随一の若手エリート!信長の娘・冬姫を娶り、豊臣政権では……

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最後に上洛したのは今生の別れだったのかも

文禄の役では名護屋まで出向きながら、体調を崩して文禄二年(1593年)11月に会津へ帰国。
それから半年もしない文禄三年(1594年)春、養生のために上洛してきました。

会津に着いたのが11月なのか、名護屋を出たのが11月なのかで少し変わるかとは思いますが、移動時間を考えると、たぶん会津にいたのは1ヶ月あるかないかでしょう。雪の時期も挟んでますし。

上洛するより、湯治にでも行ったほうが良かったんじゃ……という気がします。
会津から京都までの間にも、当時から知られていた保養地はいくつかありました。

上洛して半年後に秀吉や諸大名を招いて宴を開きますが、その頃には誰の目から見ても「黙って首を横に振る」ような状態だったようです。
秀吉も、方々から医師を招いて氏郷を診せるのですが、結局、宴会からおよそ3ヶ月後の文禄四年(1595年)2月7日に亡くなっています。

もしかすると、治らないことをわかっていて、今生の別れのために上洛したのかもしれませんね。(`;ω;´)

一応、現在では「氏郷の死因は直腸がんか肝臓がんだろう」と言われておりますが、ここで仮説を提示してみたいと思います。

氏郷は逸話が多く残っている武将の一人で、彼の場合「部下にいかに気を使っていたか」という類の話が多いことが特徴です。

特に有名なものをいくつかピックアップしてみました。

 

氏郷の人柄が見える3つのエピソード

・戦国時代の議会制民主主義?

氏郷は月一で家臣を全員集めて会議をし、年齢や立場にとらわれない自由な発言を許していました。

その後は、自ら風呂の火を沸かして部下に入らせたり、料理を振舞っていたそうです。
伊達政宗も料理を振る舞うのが好きだった――という話がありますように、戦国時代、家臣に食事を提供するのは一つのおもてなしだったようです。

・信じる者は結果出すんやで

筒井順慶(洞ヶ峠の人)のとある旧臣が蒲生家にやってきた際のことです。
臆病者と笑われていた、その者に、氏郷はいきなり一部隊を任せました。

周りの反対を押し切り、氏郷が戦を始めると、その人物は大将首を二つも取る大手柄を上げます。

「どんな人間でも、責任を与えれば必ず役に立つ」
と氏郷は信じていたようで。
現代の心理学でも似たような話がありますね。

確か「才能があると名指した子は、それに応えるように良い成績や結果を出す」という話だったと思うのですが……スイマセン、例によって名前忘れました(´・ω・`)

・おサボりは許しまへんで!

小田原征伐の際、氏郷は自ら自陣の見回りに行きました。

そしてとある部下が指示した位置から離れていたので注意したのですが、帰りがけに再び見たところ、また持ち場を離れていたので手打ちにしたそうです。
氏郷は仏様じゃなかったみたいですね。まあキリシタンだし。

どの逸話も彼の人柄が窺える話ですよね。
これだけ細々したことを気にかけているとなると、何だか気の休まらない生活をしてそうな感じがしませんか?

もしかして、氏郷はストレスや過労で命を縮めたのかもしれません。
大腸がんも肝臓がんも、ストレスの影響が大きいといわれていますし、他の病気にとってもストレスで悪化することは珍しくありません。

その場合、戦国時代の過労死……ともいえそうです。

長月 七紀・記

【参考】
国史大辞典
蒲生氏郷/Wikipediaより引用

 



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