絵・富永商太

織田家

本能寺の信長は一酸化炭素中毒で死んだ?リアルな死因を現代医師の目で考察

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6月2日は本能寺の変
明智光秀に追い込まれた織田信長は、悲劇的な最期を迎えます。

しかし、その“最期”が大きなナゾの一つだったりします。

腹を切って自害したのか。
あるいは本能寺の業火に包まれたのか。

実は腹を切った後に外へ運び出され、荼毘に付された後、清玉上人という僧侶が阿弥陀寺で供養した――なんて話もありますね。

今回は医学的な観点から、その信長の死因に迫ってみたいと思います。

 

全国へ方面軍を送り出し、あと一歩のところで……

織田信長は天文3年(1534年)、尾張・織田信秀の嫡男として生誕しました。一応、その経歴を記しておきますと……。

信長が世に知られる契機となったのは、現代でもあまりに有名な桶狭間の戦いですね。隣国・今川義元の首を討ち取り、間もなく尾張を統一すると、美濃から京都へ上洛して畿内を制圧。多方面の敵から幾度も包囲網を敷かれながら、それでも最終的には北陸、中国、山陰、関東地方を制覇すべく重臣たちを派遣させておりました。

そんな、全国の「天下布武」を仕上げている最中に起きたのが、日本史上まれに見るド派手な反逆事件。

そうです、本能寺の変です。

変なおじさんではありません。いちごパンツ(1582年)の本能寺で覚えておられる方もいるでしょうかね。

 

蘭丸から連絡きたってよ

主犯は、これまた皆さまご存知でしょう、明智光秀さんです。

【なぜ光秀はそんな事件を起こしたのか?】

本能寺の変と言うと、まずはそこに焦点が当てられがちですが、確かな史料にその記述は見られません。クーデター首謀者にして敗者の光秀には言い訳の場など一切与えられず、無残に殺されてしまったのも影響しておりましょう。

今回は、ともかく信長さんの死を検案せねばなりません。そこで現代に伝わっている主な説をもとに、事件前日の様子から振り返ってみますと……。

1582年6月1日(旧暦)の夕刻、光秀は1万3000の兵を率いて亀山城を出立しました。

「敵は本能寺にあり!!」

なんて部下たちに堂々と宣言……するワケありません。光秀は以下のように説明したという話がございます。

「蘭丸から飛脚が来て、信長さまが"中国攻めの準備は整っているか、馬などを検分したい”とのこと」

光秀の配下たちの中には、そもそもその上司の織田信長を慕っている家臣・足軽たちも多く、事前に「謀反と知ったら足並みが揃わなくなる」可能性がありました。

ゆえに光秀は、娘婿の明智秀満など側近にだけ真意を告げ、明智軍全体としては目的を知らされずに一路本能寺へ進軍するのです。このウヤムヤ作戦が後に光秀の首を絞めるのですが、詳しくは後述させていただきます。

 

内側から納戸を締めて、切腹した

さて、ここで普段使い慣れたヤフーサービスの「路線検索(電車)」を起動してください。

亀山城の最寄り駅・亀岡から、当時の本能寺近くの二条までの距離は?

答えは山陰本線で16キロ(320円)です。

意外と近いですね。隠密の進軍だったため、当日、光秀は人目を避けて大回りをしたようですが、2日の午前4時には本能寺をガッチリ取り囲んでいたと言います。

はい、ここでようやくお約束を投下。

 

曲の中にもある通り、多勢の明智軍に対して信長配下はわずか30名(数十名)。戦国無双でなければ、まず勝てません。小姓衆や御番衆、町宿から馳せ参じた武将もいましたが多勢に無勢で、善戦虚しく次々とやられていきます。

信長自身も弓やら槍で応戦しながら、その最期はいかに迎えたのでしょうか。

信長公記』を参照してみますと

「御殿に火がかけられ炎の手が迫る中、信長は殿中の奥深くに篭り、内側から納戸を締めて、切腹した」

切腹したとありますね。

一方、本能寺のすぐ近くにあった教会・神父の記録を見てみますと

「或人は、日本の大名にならい割腹して死んだと云い、或人は、御殿に放火して生きながら焼死したと云う。だが火事が大きかったので、どのように死んだかはわかっていない」

ハイ、そうなんです。

信長の遺骸は見つかっておらず真相は闇の中なんですね。

一説には阿弥陀寺(京都市)の清玉上人が遺灰を運んだという話もありますが、明智軍がウロついている中で一介の僧にそんなことできるのか?
一応、お寺の記録に残されているのですが、なかなか真偽の程は怪しいかなぁ、と。

信長の遺体が消えたのは清玉上人が埋葬したから?本能寺もう一つのナゾ

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ともかく信長さんは本能寺で死んでおります。

その死因は一体何なのか。

切腹なのか、焼死なのか……。

 

こんがり焼けた死体はファイティングポーズに!

いきなりですが言葉の定義からご説明させてください。

焼死とは「生体が火災などに巻き込まれ、高温、有毒ガス、酸素欠乏などの複合作用によって死に至ること」を指します。

従って信長が切腹で絶命した後に死んで、火災で焼けてもそれは焼死とは言えません。刑事ドラマでも殺されてから火災で死んだのか、火災自体で死んだのかというようなネタを目にしたことがあるかと思います。

ちなみに、こんがり焼けた死体は拳闘家姿位(pugilistic attitude)といってボクサーのファイティングポーズになります。熱によって腕や足を曲げる筋肉が縮んで発生する現象のことです。

ただ、これだけでは残念ながら死因の特定にまでは至りません。

信長さんが火災時に生きていた証拠(生活反応)が判明すれば一発なのですが、これはどこで判断するのか。

参考までに現代医学の観点から例を挙げてみましょう。

「気道粘膜が熱変性しているかどうか」
「気管や食道内に煤があるかどうか」
「血中の一酸化ヘモグロビン(一酸化炭素とくっついたヘモグロビン)はどうなってるか」
「一酸化ヘモグロビンによって血液や臓器はピンク色の変化があるか」

少し専門的な話でごめんなさい。

仁が江戸時代ではなく戦国時代にタイムスリップしていれば、あるいはその死因は判明したかもしれませんね。

こうした前提を踏まえたうえで、信長の死因に迫ってみましょう。

 

火災の死因は火傷と一酸化炭素中毒が9割を占める

仮に信長が切腹で絶命した場合、「死んでから焼けた」で話が終わります。

では、切腹でうまく死ねなかった場合、あるいは切腹せずに死んだ場合はどうなるのでしょうか?

ここからが『焼死』の話になります。
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