織田家

佐久間盛政・鬼玄蕃30年の生涯は風流な最期で~秀吉の誘いは笑って一蹴

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佐久間盛政は天文23年(1554年)、織田家家臣・佐久間盛次の嫡男として尾張の御器所西城ごきそにしじょうで生まれました。

【佐久間姓】からピンと来られた戦国ファンの方もおられましょうか。

そうです。
織田家の重臣にして、後に信長に追放される佐久間信盛とは親類。

盛政の父・盛次が、信盛と従兄弟……と、少々こんがらがりそうなので、系図で見ておきましょう。

佐久間家の先祖を辿っていくと、三浦義明桓武平氏)に辿り着くとされています。

さらに佐久間盛政が織田家と縁深いのは、

◆佐久間盛政の母が柴田勝家の姉
◆佐久間盛政の娘・虎姫が中川秀成(中川清秀の息子)と結婚

という点でしょう。

明智光秀の娘・明智玉子(後の細川ガラシャ)が、細川藤孝の息子・細川忠興と婚姻関係を結んだように、織田家内で縁戚を作るのは家臣団結のため信長も推奨していたとされます。

盛政の娘・虎姫の場合は秀吉の仲介によるものでしたが、いずれにせよ複雑に絡み合った婚姻関係が、後の争いでは余計に心苦しい展開になったり……。
その辺は後述するとして先へ進めましょう。

 

佐久間盛政の初陣は観音寺城の戦い

佐久間盛政の結婚は割と早いほうで、数え年12の1564年。
これまた親類である佐久間盛重の娘と結ばれました。

同年には娘の虎姫が生まれ、彼女は後に、中川秀成との間に7人もの子を産んでいます。

盛政の栄えある初陣は【観音寺城の戦い(1568年)】でした。
織田信長足利義昭を奉じて上洛したときに陥落させた、六角氏の本拠地ですね。

後に鬼玄蕃として武勇を恐れられる佐久間盛政。

さすがに16才ですから初っ端から大活躍とはいかなかったようですが、程なくして参戦した【越前手筒山城の戦い(1570年)】で戦功を挙げると、さらに同年には、六角承禎と対した【野洲河原の戦い】で叔父の柴田勝家と共に活躍します。

柴田勝家/wikipediaより引用

鬼柴田に鬼玄蕃
こんな叔父・甥コンビに敵として対峙されたらたまったもんじゃありませんね。

『陳善録』(前田利家の言行録)によると、利家の家臣・村井長頼と共に敵将の首をとった佐久間盛政が、真っ先に叔父の柴田勝家に見せに行ったため、一番首の恩賞を信長からもらえなかったというエピソードもあるほどです。

※1571年延暦寺焼き討ち時における金ヶ森攻めの時

続けて1573年【槇島城の戦い】でも手柄を立てました。
打倒信長を掲げて挙兵した足利義昭を囲み、京都から追い出した一戦ですね。

これを受けて室町幕府は滅亡するのでした。

 

信長包囲網が瓦解 越前を攻略する

お察しの通り、佐久間盛政の生涯は、柴田勝家ひいては織田家と共にあります。

足利義昭を京都から追い出した1573年は盛政にとっても一つの契機になりました。

幕府を滅亡させた――。
ということではなく、当時の織田家を苦しめていた【信長包囲網】、その中心にいた強敵・武田信玄が亡くなったのです。

当時の包囲網とは、主に以下の5勢力でした。

・足利義昭
・浅井長政
・朝倉義景
・武田信玄
・石山本願寺

足利義昭は、毛利家を頼って最前線からは退いた状態。
信玄を喪った武田家は、まだまだ有力な家臣団が残っており、石山本願寺も大坂の本拠地が非常に堅強なため、スグに片付く相手ではありません。

そこで目を向けたのが浅井朝倉です。
信長はすぐさま両家に攻め込み(1573年8~9月)、浅井と朝倉を滅亡、つまりは近江と越前の平定に成功するのですが、これが佐久間盛政の生涯にも影響してきます。

1575年、叔父の柴田勝家が越前一国を与えられ、その与力として配置されたのでした。
佐久間盛政は、強力な柴田軍でも先鋒を務め、以後、北陸の一向一揆戦などで際立った戦功を挙げていきます。

それは織田信長から感状を賜るほどで、1576年には加賀一向一揆勢に奪取された大聖寺城の救援を成功させました。

しかし北陸への進出は、同時に新たな敵をも刺激してしまうもので……。
信玄の次なる強敵が現れます。

上杉謙信です。

 

勝家が謙信相手に手痛い敗北

1577年、謙信が南下してくると、両者は激突。
豊臣秀吉の戦線離脱などもあった柴田勝家軍は、軍神率いる上杉軍を相手に手痛い敗北を喫します。

この一戦は【手取川の戦い】として知られ、浅井・朝倉を撃破して勢いづく織田家の出鼻をくじいたものとなりました。
※詳細は以下の記事にお譲りします

手取川の戦いとは? 秀吉が戦線離れて、謙信が勝家をフルボッコ!

天 ...

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佐久間盛政はこのとき戦闘には参加せず、御幸塚(現在の石川県小松市)に砦を築き、守備の責任者となります。
上杉に警戒しながら、同時に加賀の一向一揆諸勢力とも対峙せねばならない激戦のエリアでした。

こうした状況でも怯まないのが盛政。
1580年11月、加賀一向一揆の尾山御坊を陥落させた功績が認められ、加賀金沢城の初代城主となり、加賀半国の支配権を与えられたのです。

続けて翌1581年には、勝家が安土城に赴いた間隙を縫って、上杉景勝らが加賀へと侵攻、白山城(舟岡城)が攻め落とされます。
後詰(救援)のために佐久間盛政が到着したときには、既に落城しておりました。

が、しかし、盛政は、次なる援軍を待つこと無く上杉軍に挑みかかり、これを打ち破るのです。

また、1582年には、平定に散々苦労していた加賀一向一揆を壊滅(鳥越城の戦い)。

鳥越城/photo by Satoshin wikipediaより引用

こうした戦ぶりにより佐久間盛政は
「鬼玄蕃」
と恐れられるようになりました。

 

信長が光秀に討たれても柴田軍動けず

越前に続き加賀も平定。
となれば次の敵は、かつて大敗を喫した上杉家です。

軍神・謙信はすでに死しており、勝家と共に、武将としての脂がいよいよ乗ってきた佐久間盛政にとっては雪辱を果たす大きな機会。
さぞかし気合も入っていたことでしょう……と、思いきや、その日は突然やって来るのです。

1582年6月2日、本能寺の変――。

主君・織田信長が明智光秀の軍勢に攻められ、本能寺で最期を迎えていたころ、佐久間盛政は柴田勝家に従い上杉方の越中松倉城を攻撃中でした。

勝家が事件を知ったのは6日のこと。
全軍を率いて北ノ庄城へ退却し、明智光秀の動向を探っておりましたが、信長の死を知った上杉対策に追われ、盛政もまた動けずじまいでした。

そうこうしている間に、派手に中国大返しを決めた豊臣秀吉が山崎の戦いで明智軍を撃破。
信長のリベンジを果たすと清須会議に挑み、三法師織田秀信)を担いで、織田渦中の中心に躍り出ようとします。

そこで「待った」をかけたのが勝家。
そして佐久間盛政は、ある意味、人生の本番ともいうべきステージへと向かっていくのです。

有名な賤ヶ岳の戦い――いや、佐久間盛政の場合は、その前に見ておくべき戦いがあります。

荒山合戦あらやまかっせんです。

 

荒山合戦

清須会議の後、能登では有力寺院の天平寺が信長亡き織田家に敵対。
越後へ亡命していた国人衆を呼び戻して挙兵しました。

あまり知られてませんが、天平寺は強敵です。
要害の石動山を本拠地として、昔から能登の国人衆に強い影響力を及ぼした一大組織であり、一向一揆勢が同エリアに浸透しなかったのはその存在があったからです。

ただし、織田信長が存命だった頃には、織田家の勢力拡大により、天平寺の寺領も大半が没収されておりました。

そんなタイミングで起きた本能寺の変――。
千載一遇の好機!とばかりに彼らは動きます。なんと……。
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