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織田家

中川重政は所領争いが原因で表舞台から消え去った【信長家臣十傑】

戦国時代でダントツの人気を誇る織田信長

その一門出身で、内政手腕もあって、織田家臣団トップテンに名を連ねた武将がいる――と聞けば、ものすごい武将だと思いますよね?『信長の野望』シリーズでも、きっとカッコいい顔グラフィックで、パラメータも高いんだろうなぁ……と。

しかし、そんな立ち位置から悲しくもフェードアウトしてしまった武将がいます。

中川重政――。

一時は光秀や秀吉らとも出世争いをしていたほどの武将は、なぜ没落してしまったのか?
その歴史を追ってみましょう。

 

中川重政は織田一門なれど出自の詳細は不明

中川重政は、織田信長と血縁関係があります。
しかし、一門とはされておりません。

なぜか?

ざっと系図を記しますと

織田信次(信長の叔父)

織田刑部大輔

中川重政

※『織田系図』など

となり、信長から見ると従兄弟の子供に当たるんですね。

ただし、この系図には、重政と信長の関係にムリがありまして。重政には永禄年間から活躍の記録があり、信長の子供世代ではなくそれより上の世代ではないか?と目されています。

もしかしたら父親の『織田刑部大輔が存在しないのでは?』とも危ぶまれていますが、ともかく他の史料から重政が織田一門であることは確定的だとされています。

重政は、信長の馬廻衆である「黒母衣衆」をつとめていました。
黒母衣衆には後に大名となる佐々成政、赤母衣衆には前田利家などが在籍。

大将自ら先陣へ立つ織田信長を支えていた強力な直臣団であり、その中に名を連ねていた重政も、当然、相応の武力を兼ね備えていたと考えられます。

しかも重政には、内政担当者としての能力も有しておりました。

 

織田家臣団十傑の一人

永禄11年(1568年)、足利義昭を将軍にするため信長が上洛を果たしました。
その際、先頭で働いたのが次のメンバー。

柴田勝家
蜂屋頼隆
森可成
坂井政尚

いずれもこの時期の織田家重臣たちであり、この四人組からやや遅れて佐久間盛信が加わります。

彼等は京都と近畿の内政を担当することとなり、禁制の発布や税金徴収など、来たる織田の天下に向けて、地固めを進めるのでした。

翌永禄12年(1569年)になると、さらに次の四名が加えられます。

丹羽長秀
木下秀吉
明智光秀
中川重政

織田家臣団でも錚々たる面々――この中に重政が名を連ねるのですから、相当な実力があったのでしょう。
信長には、他にも多くの親類がおりましたが、織田一門で、この政治・外交のトップ集団にいたのは中川重政だけです。

ちなみに、こうした状況から考えられる当時の織田家トップ10武将は次の通りになります。

柴田勝家
蜂屋頼隆
森可成
坂井政尚
佐久間信盛
丹羽長秀
木下秀吉
明智光秀
中川重政
滝川一益

主に京都と近畿地方を担当していた九人に加え、伊勢方面で活躍していた滝川一益を加えた面々です。

とはいえ、この時点での中川重政は馬廻に過ぎません。
内政手腕はあっても、やっぱり欲しいのが武功。

信長に、そうした配慮があったのでしょうか。
元亀2年(1570年)、六角氏残党にとどめを刺すべく、琵琶湖南岸に将兵が配置されることになり、重政も一角を任せられました。

配備先は安土。織田家でも睨みを利かせる位置にいた重政。
そんな彼に、加増のビッグチャンスが迫ります。

比叡山の攻略です。

 

なぜ比叡山を攻撃したのか

元亀二年(1571年)9月、信長は比叡山焼き討ちを実行しました。

明智光秀らが中心となって進めたとされ、その中には中川重政もおりました。

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延暦寺焼き討ちの被害規模については、昨今の遺構調査などから「膨大な数の被害者のわりに遺骨が出てこないし、焼かれたという建造物の跡も出てこない」とあり、さまざまな疑問符が付いています。

ここで考えたいのは、洋の東西を問わずに起きる、権力者と宗教の対立です。

両者はしばしば衝突しますが、それはなぜか――。

宗教の教えが気に入らないから?
確かに信長と比叡山の場合、信長の性格に結びつけられがちではあります。

「比叡山は口先ばかりで堕落していたからだ!」
「合理的な信長は迷信のようなものを嫌う!」

そういうこともないとは言い切れませんが、個人的な趣味でいちいち寺と対立するほど信長も暇ではないはず。

結論を先の延べますと「金」です。
「きん」ではなく「カネ」ですね。

それが中川重政と関係あるの?と結論を急がず、しばし類似事例をご覧ください。

 

宗教とカネ

例えば目をヨーロッパや幕末に向けて考えてみます。

フィリップ4世テンプル騎士団とか。

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あるいはヘンリー8世とカトリック。

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いずれも資金力豊富な勢力に対して権力が絡んでいった事例です。

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テンプル騎士団は、利子をとっての金貸しができ。
カトリックは免罪符での収入がありました。
新門の親分は、寺銭で床が抜けるほど。

メイクマネーは、古今東西、どこでも非常に重要な存在です。

特に宗教権威ともなれば、全国のネットワークを考えれば資金力はダントツ。
襲撃すれば金があるだけではなく、うまみのあるビジネスチャンス(荘園)を獲得できるのです。

信長と比叡山の対立も、どうしたってお金が見えてきてしまう。

そしてそのことをハッキリと浮かび上がらせているのが、中川重政の運命でした。

 

戦国時代だって、金銭トラブルは危険です

比叡山焼き討ちにより、丹羽長秀と重政に御料所舟木荘が与えられました。

宗教的な意味がある土地であり、ただの加増ではありません。
ともかく収益の高いおいしい加増だったのです。

それは丹羽長秀という、信長に重宝された家臣と共に与えられていることから、中川重政への期待の高さもご理解いただけるでしょう。
しかしそれだけで済まされないのが、辛いところです。

元亀3年(1572年)、重政と柴田勝家の間に、長命寺の中間銭を巡り争いが起きていたことが確認できます。

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この小競り合いが、徹底的な決裂を引き起こします。
同年8月、重政の実弟・津田隼人正が、勝家の代官を斬殺してしまったのです。

同一件で非を咎められた兄弟は、揃って改易となり、重政は剃髪して土玄と名乗りました。

以降、彼の名は、信長周辺の記録から消え去ります。
かなり時が進んで天正7年(1579年)、茶会に参加した記録はありますが、かつてのように合戦や内政でその名を連ねることはありませんでした。

本能寺の変後は織田信雄に仕え、小牧・長久手の戦いでは犬山城の守備で池田恒興に攻略され、その後は、史料に名を見せなくなるのです。

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では、中川家はそこで滅びてしまったのか?
というと、そうではありません。

前田利家の婿である中川光重は、重政の子とされています。

数多の一族が戦国史に登場しては消え去っていく中。
加賀藩に仕えたとなれば、はるかに恵まれているように思えます。

ただし、信長が飛躍していった時期の織田家トップ10に入っていた中川重政が、土地争いを発端にフェードアウトしてしまったことは確か。

討死でもなければ、出奔でもない。金銭トラブルで干されてしまった。

なんとも悲しい運命の一人といえましょう。

文:小檜山青

【参考文献】
『織田信長家臣人名辞典(吉川弘文館)』(→amazon
『戦国人名事典(新人物往来社)』(→amazon
『戦国時代人物事典(学習研究社)』(→amazon
国史大辞典

 



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