溝口秀勝/wikipediaより引用

織田家 れきしクン

溝口秀勝とは?信長 秀吉 家康に重宝され皇室に血を伝える【戦国地味武将伝】

どうも!
れきしクンこと、長谷川ヨシテルでございます。

ある地域では有名だけど、全国的にはあまり知られていない“ご当地マイナー武将”をご紹介するこの連載。

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について書いてきました。

今回は「溝口秀勝(みぞぐち ひでかつ)」さんをピックアップしたいと思います!

 

経歴も能力も地味……溝口秀勝って誰?

という方に、まずは当連載おなじみ『信長の野望』での溝口秀勝さんDATAをご紹介いたします。

“丹羽家臣。のちに織田家家臣となる。本能寺の変後は豊臣秀吉に属す。朝鮮派兵の際は肥前名護屋城を守備した。関ヶ原合戦では東軍に属し、所領を安堵された。”

統率50
武勇53
知略56
政治55

うーむ、溝口秀勝さんには無礼を承知で、経歴も能力値もすこぶる地味!
さらに、そのグラフィックが、これまた地味!

なぜこっちをじっと見ているんだ……(Google画像検索結果)。

『信長の野望』をやったことのない方でも直感的にお察しできるかと思いますが、ゲーム内では全く使えません(笑)。

ところが、この溝口秀勝さんはとある場所では偉人として有名で、なんと銅像にもなっているのです。

場所とは……新潟県新発田市です!

溝口秀勝像

背筋がピーンと伸びて、実に凛々しく、めちゃくちゃカッコいいではありませんか。
新発田市の公式ホームページでは「新発田ゆかりの人物」として溝口秀勝さんの紹介ページもしっかりと設けられています。

ではなぜ、溝口秀勝さんが新発田市で偉人として讃えられているのか?
彼の経歴を見ていきましょう。

 

信長の右腕・丹羽氏の家臣だった

溝口秀勝さんの生年は、戦国時代ど真ん中の天文17年(1548年)。
タメには“徳川四天王”の本多忠勝榊原康政などがいます。

生誕地は越後国(新潟県)の新発田ではなく、尾張国溝口村(愛知県稲沢市西溝口町)の「溝口城」。
織田信長の生誕地である勝幡城の北東約3kmにあり、織田信長が20代の多くを過ごし「清州会議」が開かれたことで知られる清洲城の西約7kmに位置するお城です。

実家の溝口家はこの地域の地侍で、溝口秀勝さんは20歳頃から織田信長の右腕的存在だった丹羽長秀の家臣となりました。
ちなみに当初の名は「溝口定勝」だったそうです。

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詳しい実績は不明ながら、溝口秀勝さんは家臣として非常に優秀だったらしく、天正9年(1581年)、上司の上司にあたる織田信長から直臣に指名され、34歳でついに城持ちとなります。
あ、自分も現在、数え年で34歳だった……お城どころか賃貸1Kに在住……。

さてさて、織田信長から与えられたお城は「高浜城」です。
福井県高浜町は若狭湾に面する海城であり、この城主を務めている時に、溝口秀勝さんの運命はさらに大きく動いていきます。

城主になった翌年の天正10年(1582年)6月2日。
明智光秀の謀反によって、主君の織田信長が【本能寺の変】で亡くなります。

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そして、その11日後の6月3日に【山崎の戦い】で、羽柴秀吉(豊臣秀吉)が明智光秀を破ると、織田家内での権力争いが勃発します。
次の政権のリーダーになるのは、主君の仇を討った羽柴秀吉なのか、それとも織田家の家老の柴田勝家や丹羽長秀なのか、それとも関東に出陣している滝川一益なのか…

残された織田家重臣のうち、溝口秀勝さんは誰についたのか?

 

兄弟で袂を分かち秀吉方へ 弟は……

お城の立地的には、近所の越前国に北ノ庄城(福井県福井市)があり、織田家の重臣of重臣である柴田勝家がおりました。

が、溝口秀勝さんは【山崎の戦い】で主君の仇を討った秀吉に味方をする道を選びます。
まさに、情勢を見抜き切った見事な判断!と言いたいところですが、実はそうではないんです。

溝口秀勝さんも、大河ドラマ『真田丸』の真田家と同じく苦渋の決断をしているのです。

本能寺の変が起きた翌年の天正11年(1583年)――近江国(滋賀県)で、羽柴秀吉と柴田勝家による【賤ヶ岳の戦い】が起きました。

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このとき溝口秀勝さんは羽柴秀吉の軍勢に加わり、大敗した柴田勝家の軍勢を追撃して大活躍をしています。

溝口家にとっては最高の結果!としたいところですが、事はそう単純ではありませんでした。
敵軍の中に、なんと実の弟である溝口勝吉がいたのです。

「関ヶ原の戦い」の真田家同様、御家の名を残すために家族で敵味方に分かれたためでした。
この追撃戦で、実弟は討ち死にをしてしまいます…。

一方で、溝口秀勝さんは武功により、高浜城5,000石から加賀国の大聖寺城(石川県加賀市)4万4,000石の大名へと大出世を果たしました。弟の犠牲の上に出世したその心中、いかばかりか……。

※大聖寺城はshiro itibannさんのナイス画像をツイート引用させていただきます

 

秀吉から「豊臣」の姓を与えられるほど

北陸の城主になった溝口秀勝。
当時のポジションは、北ノ庄城の新城主であり、かつての主君だった丹羽長秀の与力でした。

与力とは、身分的には対等ながら、合戦時には指示下に置かれる立場であります。

しかし天正13年(1585年)に丹羽長秀が病死すると、溝口秀勝さんは羽柴秀吉直属の独立した大名となり、秀吉の一字をもらって「定勝」から「秀勝」へと改名をしています。

※独立した大名ではなく、新たに北ノ庄城主となった“名人久太郎”こと堀秀政の与力ポジションだったという解釈もあります

引き続き、秀吉から大きな信頼を得ていたのでしょう
北陸の有力大名となった溝口秀勝さんは、独立2年後の天正14年(1586年)、秀吉から「豊臣」の姓を与えられるほどになっています。

そして、文禄元年(1592年)から始まった【朝鮮出兵(文禄・慶長の役)】では、秀吉が本陣として築いた肥前国の居城・名護屋城(佐賀県唐津市)を守備する大役も務めます。
秀吉の本営のお城の管理だなんて……さぞかし凄まじいプレッシャーだったでしょう…。

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このプレッシャーを克服して任務をキチンと果たした溝口秀勝さん。
慶長3年(1598年)に越後の上杉景勝が陸奥国の会津(福島県会津若松市)に加増移封するのにリンクして、越後にお引っ越しすることとなりました。

新たに与えられたお城というのが、お待たせ致しました、新発田城でございます!

新発田城

初めて城主となり実弟と別れを告げた高浜城時代が5千石で、天下人秀吉の信任を得た大聖寺城時代が4万4千石――そして新発田城主になって6万石を領することになりました。
祝・大出世!
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