溝口秀勝

溝口秀勝像(新潟県新発田市)

織田家

信長 秀吉 家康が重宝した尾張の戦国武将・溝口秀勝~皇室にも血脈を

どうも!

れきしクンこと、長谷川ヨシテルでございます。

ある地域では有名だけど、全国的にはあまり知られていない“ご当地マイナー武将”をご紹介するこの連載。

今回は慶長15年(1610年)9月28日に亡くなられた尾張の戦国武将「溝口秀勝(みぞぐち ひでかつ)」さんをピックアップしたいと思います!

 

経歴も能力も地味……溝口秀勝って誰?

まずは「溝口秀勝って誰……?」という方に、当連載おなじみ『信長の野望』における溝口秀勝さんDATAをご紹介いたします。

“丹羽家臣。のちに織田家家臣となる。本能寺の変後は豊臣秀吉に属す。朝鮮派兵の際は肥前名護屋城を守備した。関ヶ原合戦では東軍に属し、所領を安堵された。”

統率50
武勇53
知略56
政治55

うーむ、溝口秀勝さんには無礼を承知で、経歴も能力値もすこぶる地味!

さらに、そのグラフィックが、これまた地味(Google画像検索結果)!

なぜこっちをじっと見ているんだ……。

『信長の野望』をやったことのない方でも直感的にお察しできるかと思いますが、ゲーム内では全く使えません(笑)。

ところが、この溝口秀勝さんはとある場所では偉人として有名で、なんと銅像にもなっているのです(TOP画像参照)。

場所とは……新潟県新発田市です!

上に戻って写真をもう一度ご覧ください。背筋がピーンと伸びて、実に凛々しく、めちゃくちゃカッコいいではありませんか。

新発田市の公式ホームページ(→link)では「新発田ゆかりの人物」として溝口秀勝さんの紹介ページもしっかりと設けられています。

ではなぜ、溝口秀勝さんが新発田市で偉人として讃えられているのか?

彼の経歴を見ていきましょう。

 

信長の右腕・丹羽氏の家臣だった

溝口秀勝さんの生年は、戦国時代ど真ん中の天文17年(1548年)。

タメには“徳川四天王”の本多忠勝榊原康政などがいます。

生誕地は越後国(新潟県)の新発田ではなく、尾張国溝口村(愛知県稲沢市西溝口町)の「溝口城」。

織田信長の生誕地である勝幡城の北東約3kmにあり、織田信長が20代の多くを過ごし「清州会議」が開かれたことで知られる清洲城の西約7kmに位置するお城です。

ざっと地図で確認しておきますと……。

黄色が溝口城で、緑色が勝幡城で、赤色が清州城となります。

実家の溝口家はこの地域の地侍で、溝口秀勝さんは20歳頃から織田信長の右腕的存在だった丹羽長秀の家臣となりました。

※以下は信長と長秀の関連記事となります

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ちなみに当初の名は「溝口定勝」だったそうです。

詳しい実績は不明ながら、溝口秀勝さんは家臣として非常に優秀だったらしく、天正9年(1581年)、上司の上司にあたる織田信長から直臣に指名され、34歳でついに城持ちとなります。

あ、自分も同年代で……お城どころか賃貸1Kに在住……。

さてさて、織田信長から与えられたお城は「高浜城」です。

福井県高浜町は若狭湾に面する海城であり、この城主を務めている時に、溝口秀勝さんの運命はさらに大きく動いていきます。

城主になった翌年の天正10年(1582年)6月2日。

明智光秀の謀反によって、主君の織田信長が【本能寺の変】で亡くなります。

本能寺の変
なぜ光秀は信長を裏切ったか「本能寺の変」諸説検証で浮かぶ有力説は

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そして、その11日後の6月3日に【山崎の戦い】で、羽柴秀吉(豊臣秀吉)が明智光秀を破ると、織田家内での権力争いが勃発します。

次の政権のリーダーになるのは、主君の仇を討った羽柴秀吉なのか、それとも織田家の家老の柴田勝家や丹羽長秀なのか、それとも関東に出陣している滝川一益なのか…

残された織田家重臣のうち、溝口秀勝さんは誰についたのか?

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