文禄四年(1595年)2月7日は、戦国武将の蒲生氏郷が亡くなった日です。
織田信長に大層気に入られ、烏帽子親(後見人)になってもらったばかりか、信長の娘・冬姫を与えられた織田家中の若手エリート。ゆえに熱狂的ファンも多いですよね。
本稿ではその足跡を追ってみましょう。
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蒲生氏郷 烏帽子親が信長だった期待の婿殿
氏郷は弘治二年(1556年)、近江の大名・六角家の重臣である蒲生家に生まれました。
幼名は鶴千代。
たぶん「鶴のように長く生きてほしい」という願いがこもっていたのでしょうね。
織田信長が京都に上洛するための戦を続ける中、人質に出されたことが氏郷の運命を決めました。
信長は氏郷の目つきを気に入り、娘婿にすると約束したのです。謎の気前。
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しかし、その気前は間違っておりませんでした。
将来を約束された氏郷は、岐阜に移って儒教や仏教、武芸を学びます。
元服の際には信長自ら烏帽子親を務め、さらに信長の官職「弾正忠」から「忠」の字を与えて通称の「忠三郎」と名乗らせ、期待ぶりを示しています。凄まじい気に入られっぷりっすな。
13歳で初陣を果たし、武将としての門出を終えた氏郷に、約束通り信長は自身の娘・冬姫を娶らせました。
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夫婦仲は良好だったのですが、氏郷が忙しすぎたためか子供は三人と少なめです。
側室もいなかったんですけどね。
濃姫を助けたなんてお話も
氏郷は、父・蒲生賢秀(かたひで)と共に柴田勝家の配下となりました。
各地を転戦し、浅井・朝倉氏との戦いや【伊勢長島攻め】や【長篠の戦い】など、信長の主要な合戦にはだいたい参加しております。
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本能寺の変の際は、賢秀と連絡をとって安土城の織田家の人々を保護し、蒲生家の居城である日野城へこもりました。
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この保護された人の中に、信長の正妻にして斎藤道三の娘である濃姫がいたとかいなかったとか。
おそらく、日頃から蒲生家が奥にも信用されていた証ゆえの俗説でしょう。
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もちろん、明智光秀には従いませんでした。
そりゃあ、こんだけ目をかけられていれば、裏切り者に味方する気になんてならないですよね。
光秀は別働隊に近江攻略をさせる予定だったようですが、本人が【山崎の戦い】で敗れたため、蒲生家と戦うことはありませんでした。
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その後、父から家督を譲られて蒲生家当主となった氏郷は、清州会議から豊臣秀吉に従うことを決めます。
秀吉が徳川相手に戦った【小牧・長久手の戦い】では、狙撃もされています。
氏郷のトレードマークだった鯰尾兜に、三つも弾が当たったとか。
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織田信長もそうでしたが、氏郷は自ら陣頭に立つことを好んでいたので狙われたのでしょう。
大谷吉継が朝鮮の役で「運命の矢は一本よ」と言っていたという逸話があります。
銃弾も同じなんでしょうか。
冬姫の影響力も懸念して会津に飛ばされる!?
信長時代と同じように、秀吉とともに転戦した氏郷は、九州征伐の後に三重へ封じられて松坂城を築きました。
読み方は「まつさか」で濁らないそうです。

松坂城の月見櫓石垣
石垣に、古墳の石棺のフタ(!)を使ったり、住民を強制的に移動させたり、前の領地の商人を連れてきたり。
強引なところもあったようですが、立派な城下町を造り、商都としても栄えさせるのです。
おそらくや、この辺が彼の最盛期だったでしょう。
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加増を経て91万石にもなるのですが、氏郷本人は男泣きに泣いたといいます。
「こんな遠いところに封じられては、上方で何か起きたときすぐに働けない」
秀吉は表向き「関東(家康)と東北(政宗など)の押さえに」と言っていながら、氏郷の人望や野心を警戒していたという説もありますね。
もしくは、氏郷の正室・冬姫の影響を恐れたのかもしれません。
後々蒲生家は氏郷の正室・冬姫が信長の娘だったために改易を免れていますから、信長の記憶が色濃い当時は、もっと影響力が強かったでしょう。
会津に渡って胃痛の連続だったのでは……
とはいえ氏郷は、そこでゴネ続けることはできない律儀な人です。
覚悟を決めて会津・黒川の地に移った後は、城の名を蒲生家の家紋にちなんで「鶴ヶ城」と改め、七層もの天守を持つ大きな城に改築しました。
現在の会津若松城は五層ですが、あれは江戸時代に改築された姿が元になっているそうで。
また、氏郷はここでも城下町の発展に力を注いでいます。
町の名を黒川から「若松」に改め、自らも信ずるキリスト教への改宗や商業政策を重視し、町を大きくしていきました。
伊達政宗とは大方の予測通りたびたび対立しています。
対立というよりは小学生のケンカみたいな「政宗の陰謀が氏郷にバレて秀吉に報告される」というケースで……。
そのたびに政宗がものすごく強引な言い逃れをして助かっているので、氏郷としては相当ストレスが溜まったでしょうね。
学級委員と悪ガキみたいな感じでしょうか。
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