柴田勝家/wikipediaより引用

織田家

柴田勝家(織田家の重臣)当初は信長の敵だった鬼柴田62年の生涯まとめ!

戦国大名の中でも、ダントツの人気を誇る信長。

彼に仕えた家臣たちもまた、後世の多くの人々に敬愛されてきました。

その代表格の一人が柴田勝家でしょう。

鬼柴田とも呼ばれ、織田信長が絡む作品では欠かせない猛将としてつとに知られた存在であります。しかし……。

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実はその生涯、意外と謎に包まれています。

 

信長の父に仕え、弟を盛り立て

まず柴田勝家は、生年や出自がハッキリしておりません。

いわゆる諸説アリというやつで、生まれは大体1522~1527年と推定。

信長が1534年生まれなので、最大で一回り、最低で7歳ぐらい歳上になりますね。

経緯はともかく、勝家は若い頃から信長の父・織田信秀に仕え、領地として村を一つもらっているぐらいなので、家柄あるいは若い頃から能力が突出していたであろうことは間違いないでしょう。

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また、早くから、信長の弟・織田信勝織田信行)に仕えていたとされています。

信秀の死後もしばらく信勝に仕え続け、兄弟の対立が決定的なものとなるまでは、信長の命で武働きをしたこともありました。

例えば天文二十二年(1553年)の【萱津かやづの戦い】などです。

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この頃の勝家は、林秀貞などと共に、信長よりも信勝が織田家の当主にふさわしいと考えており、それに沿った行動をしています。

しかし、以下のような理由から信長方に転身しました。

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・弘治2年(1556年)8月、稲生の戦いで信長方に敗れた

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・信行が新参かつ男色相手の津々木蔵人を重用し、勝家らを冷遇する

土田御前(信長・信行の実母)の仲介で、稲生の戦いの件を赦免されたにもかかわらず、弘治3年(1557年)、信勝が再度、信長への謀反を企てた

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実際に信長と戦い、敗れ、実力差を痛感させられた勝家。

にもかかわらず、弟・信勝は現実を見ようとせず、あろうことか再び兄を殺そうとした――。

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これでは、どんな人でも愛想がつきましょう。

柴田勝家は、謀反の件を信長に密告。

その報を受けた信長は仮病を使い、信行を清州城へおびき寄せ、殺害しました。

 

信行殺害後 8年間の動向が不明なまま

元はと言えば勝家の機転なれど、かつての主君筋を喪い、気分もすぐれなかったでしょう。それからしばらくの間、勝家は表に出てこなくなります。

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美濃攻めといった信長前半生の大舞台に、彼は意外にも参加していないのです。

もしかしたら参加していたのかもしれませんが、記録には出てこない。

永禄八年(1565年)7月頃から文書に名前が出てくるまで、おおよそ8年間の動向は不明です。

信勝の死後、遺児である津田信澄らの養育を任されていたようなので、しばらくはそちらに専念するよう命じられていたのかもしれません。

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信澄からすると、叔父の信長は父の仇であり、勝家は裏切り者です。

将来に禍根を残さないためには、できるだけ小さいうちにシッカリと教育しなければなりません。

勝家が戦のためしょっちゅう留守にすれば、どこの誰が信澄らにあることないこと吹き込むかわかったもんじゃない。

転身した経緯があるとはいえ、信長が何の意図もなく8年間もサボらせるとも考えられませんから、これ以外にも何かしらの理由はあったでしょう。

 

義昭奉じての上洛戦にも参加

明智光秀細川藤孝の働きにより、足利義昭を奉じて上洛することになった織田信長。

その永禄十一年(1568年)の上洛戦から、再び柴田勝家は前線で働く記録が見受けられるようになります。

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合間に京都の軍政にも携わっています。

記録にない8年間で何があったか不明なれど、この頃は信長の心証や評価も高かったと見てよさそうです。

永禄十二年(1569年)1月【本圀寺の変】に対する上洛や、同年8月の伊勢侵攻にも参加。

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元亀元年(1570年)4月の越前攻めの最中に浅井長政が離反し、岐阜と京都との行き来がしにくくなると、信長は勝家ら配下の武将を琵琶湖南岸に置き、道を確保しました。

美濃~京都ルートは、織田家にとって非常に重要な交通路です。

その一角を任されたのですから、【鬼柴田】と恐れられる実力者だったことは間違いないでしょう。

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同年6月には浅井・朝倉両氏と姉川の戦いが勃発。

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この戦いは、最初は織田勢が押されながら、途中、徳川の奮起があって、織田徳川連合軍が勝った――というのが通説ですが、実際は言うほど勝利ではないのでは?というツッコミもあります。
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