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本能寺の変、真相は? なぜ光秀は信長を討ったのか 有名諸説を徹底検証!

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野望説

光秀は、心ひそかに天下の野心を抱いていた。
それを実行した――というのが、そのまんま「野望説」です。

戦後ほどなくして唱えられた説で、根拠の一つとなるのが有名な【愛宕百韻(愛宕連歌会)】です。

愛宕百韻の詳細は、以下の記事に譲りまして、簡単に説明しますと。

愛宕百韻で光秀が詠んだ「ときは今 あめが下知る 五月かな」の意味は?

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本能寺の変の数日前。
5月28日に愛宕神社で開かれた連歌会で、光秀が以下のように心境を詠みました。

「ときは今 あめが下知る 五月かな」

なぜ、これが【野望】となるのか?

語句を分解すればご理解いただけるでしょう。

「とき」→「土岐氏=光秀の出身」

「あめ」→「天=天下」

「下知る」→「命令」

まとめると、ざっとこんな感じになります。

「とき(土岐氏の僕が)は今 あめ(天下に)が下知る(命令するからね!) 五月かな」

土岐氏の僕が天下に命令するからね!

なんだかいかにも面白い!と思ってしまいますよね。

もうこれでエエやん。

そう考えたくなりますが……。

野望説の答え合わせ

根拠となる愛宕百韻は『惟任退治記』という軍記物に掲載されています。

その作者は豊臣秀吉の側近。

当然ながら「秀吉サイコー! 光秀サイテー!」という論調で描かれており、史料的価値については疑問視されています。

豊臣秀吉 62年の生涯まとめ【年表付き】多くの伝説はドコまで本当か?

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愛宕百韻の原文についても「改ざんされたのではないか?」と指摘されるほど。

残念ながらこの説もぶった斬られてしまいました。

 

朝廷黒幕説(光秀勤王家説)

まずは光秀勤王説から。

勤王という言葉が、なんだか幕末じみておりますが、あながち遠くなく「天皇・朝廷のため!」という考え方になります。

光秀はもともと朝廷のために働いていた。

しかし、全国に勢力を拡大し続ける織田信長が増長しており、このままでは天皇の上に立ってしまう――。

と、懸念した光秀が信長の野望を阻止するために動いたというものです。

そして、その発展形が朝廷黒幕説です。

黒幕とは、つまり【背後で囁いていた者たち】がいるってことで、それが朝廷だという話です。

「光秀はん、信長はんを討っておくんなはれ」とヒソヒソ囁いたっていうわけですね。

果たして皇族と公家が武家のTOP・織田信長を殺せなんてお願いできるのか?

たとえ光秀が勤王派だとしても、信長に密告されたらアウトじゃん。そんなお願い、普通、できないだろ――。

と思う場面かもしれませんが、この説は、著名な在野の研究者さんたちが提唱したことによって衝撃を伴って広まりました。

何より劇的な展開のため、フィクションでも採用されやすく、皆さんもドコかで一度はお目にかかったことがあるのでないでしょうか。

果たして根拠のほどは?

朝廷黒幕説(光秀勤王家説) 答え合わせ

信長は天皇をないがしろにするどころか、これを保護しておりました。

戦国時代の大乱を受け、極度に貧乏になっていた皇室に資金援助をしていたのです。

正親町天皇に譲位を迫っていた」→「信長が天皇になろうとしていた」なんて話もありますが、現実は真逆。

正親町天皇自身が譲位を望んでいたのです。

正親町天皇が戦国時代を生き抜く! ド貧乏だった皇室は信長に救われた?

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だったら譲位すればいいじゃん!と簡単に行かないのが朝廷という世界。天皇の譲位には多額の資金が必要になります。

その資金を工面しようとしていたのが他ならぬ信長です。

そんな相手を「殺して」なんて光秀にお願いするでしょうか。

というわけで、この説も否定されております。

ちなみに天皇ではなく、近衛前久という有力な公家もおりました。

戦国関白・近衛前久は信長や謙信とマブダチ! 本能寺後に詠んだ南無阿弥陀仏

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しかし彼もがっつり信長派であり、光秀に殺害依頼をするはずもないとされています。

 

足利義昭黒幕説(光秀幕臣説)

信長に奉じられて15代将軍となった足利義昭

途中から仲違いして、信長を討つべく「信長包囲網」などを推し進めたりしておりました。

足利義昭(覚慶)61年の生涯をスッキリ解説!バカ殿?それとも実は頭脳派?

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それが尽く失敗。
槇島城の戦い】で敗れた後は毛利氏の下に身を寄せ、そこから信長殺害の命令を光秀に出した――というのが足利義昭黒幕説です。

槇島城の戦いで室町幕府滅亡! 意外と緻密だった将軍の戦略【信長vs義昭】

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もともと光秀は義昭に仕える幕臣でした。

なので「幕府再興を進めるために信長を討った!」という【光秀幕臣説】を発展させた内容となります。

これは素人目に見ても、なんだか唐突な印象ですよね。

しかし、この義昭黒幕説が発表されたときはかなり衝撃的だったようです。

というのも同説を提唱したのが、中世史を専門とする大学教授の研究者だったからです。プロに言われてしまえば、なかなか一般の戦国ファンには言い返せないものでしょう。

では、なぜそんな説が唱えられたのか?

光秀に信長討伐を命じたという根拠や義昭の構想をザッとまとめますと。

・「義昭の復権」を記している光秀の書状があった

・光秀は長宗我部や本願寺、上杉など、当時の敵対勢力と連絡を取っていた

・朝廷が信長を将軍にしようとしている(正式に室町幕府を終わらせようとしている)という状況

・義昭は自ら備後(岡山県)に幕府を作り、毛利輝元を副将軍にする

どうでしょう。
織田信長を頼っていた朝廷と異なり、足利義昭は恨みを抱いておりました。

そんな状況で本職の研究者に「義昭が黒幕だよ」なんて言われたら『うーん、これはあるかも……』と思ってしまいますよね。

しかし……。

足利義昭黒幕説(光秀幕臣説) 答え合わせ

確かに足利義昭は、かつて信長包囲網を敷いたことがあります。

が、信長に追われて毛利氏の下に身を寄せてからはそうした呼びかけを行っていません。

そもそも、この時点で織田軍に対抗しうる存在は
・上杉
・毛利
・北条
あたりですが、毛利も上杉もその織田軍に攻められ四苦八苦の状態。

包囲するどころか囲まれかねない状況であり、実際、本能寺の変の翌日6月3日には、上杉方の魚津城が陥落させられておりました。
※島津や伊達・最上は距離がありすぎ

魚津城の戦い(織田vs上杉)が劇的! 本能寺の凶報は上杉武将の自刃後に届く

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こうした諸勢力と連携を取ったってどうにもならない可能性が高いですし、そもそも光秀と上杉・毛利・北条に繋がりはなく、それこそ土壇場で裏切られる可能性だって低くありません。

義昭が毛利を利用するのであれば、豊臣秀吉と和睦を結ぶこともなかったでしょう。

ご存知のとおり、秀吉は本能寺の変を知るや、毛利との和睦を結んで中国大返しを敢行し、山崎の戦いで光秀を討っております。

毛利の下に身を寄せ、そして毛利輝元を副将軍にするという話が事前に打ち合わせているのであれば、わざわざ光秀を不利にする馬鹿な外交策があるでしょうか。

やはり義昭黒幕説にはムリがある。

なお、次の秀吉黒幕説は、さすがにもっと無理があるのですが、フィクションになると抜群に面白い。

こちらを見て参りましょう。
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