織田信長が、室町幕府15代将軍となる足利義昭を奉じて上洛したのは1568年(永禄十一年)のこと。
-
信長と義昭 上洛戦の一部始終! 岐阜から京都までどんな敵と戦っていた?
続きを見る
将軍をサポートしたことで細川藤孝や明智光秀との関係も深くなり、織田家の躍進が始まるため、この1568年は織田家にとって大きな年となりましたが、実はその2年前にも、実行直前で断念した「幻の上洛計画」がありました。
2014年10月にそれを裏付ける書状が見つかり、大きな話題となったのです。
熊本県立美術館が『信長からの手紙』展を準備するため、関連資料を精査していたところ、同館と熊本大永青文庫研究センター、東大史料編纂所の共同調査で発見。
なぜ今頃になって「新発見」されたのか?
というと、以下の図録にあるように「紙の裏側」に書かれていたからです。
正確に言えば、一度使った書状を後で再利用したため、裏側に記録が残されていたんですね。
では、少し詳しく見て参りましょう。
お好きな項目に飛べる目次
2年早い信長「幻の上洛計画」
まずは展示図録「信長からの手紙」から、その解説を引用してみますね。
<初公開の一色藤長・三淵藤英連署書状は、米田与右衛門家に伝わる医書の料紙の裏に書き込まれていた14通の同趣旨の文書のうちの1通。
永禄九年(1566)八月に矢島の義昭と信長の上洛計画が立てられたが、直前に六角氏の裏切りにあるなどしてそれが頓挫したために、発給されずに反故紙になって、そのために現在まで伝わったという、驚くべき文書である。>
(展示図録「信長からの手紙」より)
実は「幻の上洛計画」自体は研究者には知られていました(下にある永禄八年の信長文書などから)。
この書状は実際には発給されない「投函前のお手紙」ということで、大変に貴重な資料とされています。
赤字部分「矢島の義昭」とはどういうことなのか?
室町幕府13代将軍・足利義輝が松永らに攻められ自害すると、自らの身の危険を感じたのが当時僧侶だった義昭。
-
足利義輝(13代将軍)の壮絶過ぎる散り際! 麒麟がくるで注目されるその生涯
続きを見る
奈良を脱出して、近江国(滋賀県)の観音寺城(近江八幡市)の六角氏を頼り、亡命しました。
その滞在先が矢島(滋賀県守山市)だったのです。
偉い将軍さまは直接お手紙を出さないので、形式的には部下が出しています。
このときは幕臣の三淵藤英(みつぶちふじひで)・一色藤長(いっしきふじなが)が書いています。
大河ドラマ『麒麟がくる』でもお馴染みの二人ですね。
-
三淵藤英(藤孝の兄)はなぜ信長に自害させられたのか? 史実の生涯まとめ
続きを見る
「地元で反乱です。日本海へ逃げてください」
原文はこのようになっています。
もちろん読めなくても問題ありませんので、サッと目をお通しください。
御退座之刻、其国以馳走
無別儀候、然者、為 御入洛御供
織田尾張守参陣候、弥被頼
思食候条、此度別被抽忠節様、
被相調者、可為御祝着之由候、
仍国中ヘ御樽可被下候間、
此等之通被相触、参会之儀、
可被相調候、定日次第可被差越
御使候、猶巨細高勘・高新・冨治豊
可被申候、恐々謹言、
八月廿八日 藤英(花押)
藤長(花押)
菊川殿
菊川殿というのは、伊賀国か山城国の武士と考えられています。
義昭(このときは還俗して義秋)が奈良から脱出するときに協力した者たちですね。
義昭が幕府再興のために上洛する時に、尾張守の織田信長が協力してくれることになったことを伝え、義昭への忠節を依頼する内容です。
-
足利義昭(覚慶)61年の生涯! 信長と共に上洛し京を追われてどうなった?
続きを見る
-
織田信長 史実の人物像に迫る!生誕から本能寺まで49年の生涯まとめ年表付
続きを見る
それがなんと、8月28日の翌日に、世話人だったはずの六角氏の裏切りが発覚。
直前で上洛計画は頓挫してしまい、近江を脱出した義昭は、若狭の武田氏を経由して越前(いずれも福井県)一乗谷・朝倉氏のもとへ亡命しました。すると……。
※続きは【次のページへ】をclick!