戦国時代でダントツの人気を誇る織田信長。
その一門出身で、内政手腕もあって、織田家臣団トップテンに名を連ねた武将がいる――と聞けば、ものすごい武将だと思いますよね?
『信長の野望』シリーズでも、きっとカッコいい顔グラフィックで、パラメータも高いんだろうなぁ……と。
しかし、そんな立ち位置から悲しくもフェードアウトしてしまった武将がいます。
中川重政――。
一時は光秀や秀吉らとも出世争いをしていたほどの武将は、なぜ没落してしまったのか?
その歴史を追ってみましょう。
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中川重政は織田一門なれど出自の詳細は不明
中川重政は、織田信長と血縁関係があります。
しかし、一門とはされておりません。
なぜか?
ざっと系図を記しますと
織田信次(信長の叔父)
│
織田刑部大輔
│
中川重政
※『織田系図』など
となり、信長から見ると従兄弟の子供に当たるんですね。
ただし、この系図には、重政と信長の関係にムリがありまして。重政には「永禄年間(1558年~1570年)」から活躍の記録があり、信長の子供世代ではなくそれより上の世代ではないか?と目されています。
もしかしたら父親の『織田刑部大輔が存在しないのでは?』とも危ぶまれていますが、ともかく他の史料から重政が織田一門であることは確定的だとされています。
重政は、信長の馬廻衆である「黒母衣衆」をつとめていました。
黒母衣衆には後に大名となる佐々成政、赤母衣衆には前田利家などが在籍。
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大将自ら先陣へ立つ織田信長を支えていた強力な直臣団であり、その中に名を連ねていた重政も、当然、相応の武力を兼ね備えていたと考えられます。
しかも重政には、内政担当者としての能力も有しておりました。
織田家臣団十傑の一人
永禄11年(1568年)、足利義昭を将軍にするため信長が上洛を果たしました。
その際、先頭で働いたのが次のメンバー。
いずれもこの時期の織田家重臣たちであり、この四人組からやや遅れて佐久間盛信が加わります。
彼等は京都と近畿の内政を担当することとなり、禁制の発布や税金徴収など、来たる織田の天下に向けて、地固めを進めるのでした。
翌永禄12年(1569年)になると、さらに次の四名が加えられます。
織田家臣団でも錚々たる面々――この中に重政が名を連ねるのですから、相当な実力があったのでしょう。
信長には、他にも多くの親類がおりましたが、織田一門で、この政治・外交のトップ集団にいたのは中川重政だけです。
ちなみに、こうした状況から考えられる当時の織田家トップ10武将は次の通りになります。
主に京都と近畿地方を担当していた九人に加え、伊勢方面で活躍していた滝川一益を加えた面々です。
とはいえ、この時点での中川重政は馬廻に過ぎません。
内政手腕はあっても、やっぱり欲しいのが武功。
信長に、そうした配慮があったのでしょうか。
元亀2年(1570年)、六角氏残党にとどめを刺すべく、琵琶湖南岸に将兵が配置されることになり、重政も一角を任せられました。
配備先は安土。織田家でも睨みを利かせる位置にいた重政。
そんな彼に、加増のビッグチャンスが迫ります。
比叡山の攻略です。
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