岐阜城の戦い

織田家

東西のスター武将が集った【岐阜城の戦い】はド派手な関ヶ原前哨戦だった!

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ド派手な攻防は正則に譲り、本丸への一番乗りをゲッチュー

ここから岐阜城の攻城戦に入ります。

岐阜城は金華山単体の山ではなく、連峰であるので、それぞれの峰に曲輪を構築しています。

ここでも織田秀信は各峰の曲輪に兵力を分散させたと批判されていますが、これも岐阜城の特性である、平場が少なく大兵力を収容できないという特徴を理解していないことからくる誤解でしょう。

そもそも岐阜城は籠城には向いておらず、このような無残な展開で囲まれた時点で降伏すべきですし、実際、東軍も降伏勧告をしました。

が、織田秀信は拒否します。

結果論ながら、この時に拒否して戦ったことが、戦後、織田秀信配下の武将たちの武士としての価値を高め、各藩に破格の待遇で招かれました。

岐阜城攻めに話を戻します。

追手門(大手門)は福島正則、水の手口は池田輝政が担当しました

池田輝政は元岐阜城主であるので、すべて熟知しています。

輝政はド派手に武功を飾ることのできる追手門攻めを敢えて福島正則に任せ、実は本丸に最も近い、裏手の水の手口から攻め込み、本丸へ一番乗りを果たします。

さすがの池田輝政も岐阜城一番乗りの手柄までは譲る気がなかったのでしょう。福島正則が絡むと戦もなんだかほのぼのしますね。

本丸まで攻め込まれた織田秀信は自害を考えますが、東軍諸将の説得に折れ、ついに降伏します。

 

その時、石田三成は?

石田三成は、東軍が木曽川の渡河を開始した時点で、小西行長らと共に大垣城を出て、揖斐(いび)川西岸の沢渡(さわたり)に陣を張ります。

【米野の戦い】で織田勢が敗走したのを知ると、さらに家臣の舞兵庫を長良川西岸まで約1,000の兵を派遣。

また島津義弘は墨俣まで突出させます。

しかし福島正則らの軍勢から途中で別れて長良川に向かっていた黒田長政藤堂高虎の軍勢が、彼らに気づいていない舞兵庫の軍勢を捕捉し、長良川を越えて奇襲を仕掛けます。

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これで石田三成は、慌てて大垣城に撤退。結果的に岐阜城のみならず島津勢も墨俣に置き去りにされます。

この一件からみても、石田三成は後手を踏みまくっています。

そもそも岐阜城が籠城戦に不向きな城であること、ゆえにずっと前に大垣城を出陣して木曽川流域で全力で阻止しなければならないという美濃防衛の定石を踏んでいません。

美濃の生命線である木曽川を突破された上に濃尾平野に大軍勢を展開できなければ、岐阜城は戦わずして負けなのです。

「そこまで三成さんを悪く言うなよ!」と、お考えの方もいるかもしれません。

それでは石田三成の布陣が間違ってなかった、もしくは何か意図があったとして、その布陣を分析してみましょう。

まず石田三成にとって、東軍の美濃侵攻時点での最大の懸念は、西軍主力の毛利秀元小早川秀秋(東軍?西軍?論争はさておき)、宇喜多秀家、大谷吉継などの大軍勢が美濃に到着していなかったことです。

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立花宗茂など、少数ながら精強な軍勢も、一度、美濃の垂井まで出陣したものの大津城を攻めに近江に向かってしまったことも誤算でした。

最前線である美濃−尾張間での東西のパワーバランスが既に崩れていたのです。

また、軍を揖斐川や長良川西岸に付近に布陣するという、岐阜城防衛を考えると中途半端な布陣は、そもそも美濃防衛というより、近江、佐和山城を中心にした防衛ラインを考えていたのではないでしょうか。

戦の基本は自陣の外に橋頭堡を築き、それもできるだけ遠くに最前線を構えることです。

岐阜城防衛には明らかに西美濃に寄り過ぎで、素人目にも「そんなところにいてどうすんのよ?」といった場所に三成は布陣しています。

しかし佐和山城を中心に考えると、その先に関ヶ原の天嶮、さらに先には西美濃の大垣城、そして揖斐川、長良川、木曽川という東軍に対して何段にも天然の要害が続きます。

西軍の主力が到着していないことを考えると、揖斐川でも十分、敵側に突出した最前線に陣を張っていることになります。

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©2015Google,ZENRIN

いずれにせよ、敵を目前にして味方の岐阜城をさっさと切り捨てていることには変わりありません。やはり三成の大戦略に問題があったとしか言えないでしょう。

結果、岐阜城は1日で落城し、東軍は美濃侵攻に成功。岐阜城という強力な橋頭堡を築きました。

家康も遂に西に向けて進軍を開始します。

こうして東山道と東海道からやってくる大兵力を安全に美濃で合流させることがが可能に……なるはずでしたが、東山道からやってくる徳川秀忠率いる徳川家の主力に対して、信州上田城を守る真田昌幸がそうは問屋が卸さない戦いを展開します。

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東軍は東海道組のみで関ヶ原の戦いへと移行することになりました。

織田秀信は命を助けられ、その後、高野山での幽居生活となりますが、関ヶ原から間もない1605年、26歳の若さでなくなっております。

病死とも、自害とも。

 

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筆者:R.Fujise(お城野郎)

◆同著者その他の記事は→【お城野郎!

武将ジャパンお城野郎FUJISEさんイラスト300-4

日本城郭保全協会 研究ユニットリーダー(メンバー1人)。
現存十二天守からフェイクな城までハイパーポジティブシンキングで日本各地のお城を紹介。
特技は妄想力を発動することにより現代に城郭を再現できること(ただし脳内に限る)。

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