金森長近

金森長近/wikipediaより引用

織田家

信長親衛隊・赤母衣衆から大名へ出世した金森長近 85年の生涯とは?

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飛騨一国の大名に!

豊臣秀吉に臣従してからの金森長近も、堅調な働きっぷりは変わらずで、その後は

小牧・長久手の戦い

◆富山の役

◆飛騨・姉小路頼綱討伐

などで功績を挙げ、飛騨一国を与えられます。

小牧・長久手の戦い
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天正地震のため一晩で山中に埋もれたとされる飛騨国・帰雲城(かえりぐもじょう・埋蔵金伝説も存在)と内ヶ島氏にも、長近が少しだけ関係しておりますので確認してみますと……。

佐々成政が秀吉に敵対していた頃、内ヶ島氏は成政方についていました。

しかし、本拠・富山城へ攻め込まれた成政は、10日ほどで剃髪・降参。

内ヶ島氏は元々飛騨の峻険な地域を領していたこともあり、外征経験が少ないため、これ以上の抗戦は不可能と判断します。

損耗を避けるため、当主・内ヶ島氏理は、長近を通じて秀吉と和睦したい旨を伝えました。

この和睦はスムーズに成立し、帰雲城ではそれを祝って氏理以下、一族・重臣が勢揃いする大祝宴が行われることになります。

よりにもよってその宴の夜に天正地震が発生。

城ごと全員土砂に埋まってしまった――というものです。

帰雲城
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内ヶ島氏の領内に2~3ヶ所の金山があったとされ、埋蔵金伝説も生まれたのです。

言わずもがな、地震は自然現象なので長近に責任はないものの、この知らせを聞いて複雑な気持ちになったでしょうね。

金森長近がどのタイミングでこの件を知ったかはわかりません。

が、飛騨一国を預かる立場になったからには、内ヶ島氏に連絡を取ろうとしたはずです。

内ヶ島氏の中で、たまたま外出していた人や、氏理の親族のうち、仏門に入っていた弟二人は助かったといわれていますので、その中の誰かから聞くか、誰かに調べさせるかくらいはしたでしょう。

 

観光地・飛騨高山は長近が作った!?

話を長近に戻しましょう。

飛騨を任された長近は、当初、鍋山城(高山市)に腰を落ち着けました。

その後、天正十八年(1590年)から、天神山に高山城の造営を開始。完成したのは、この後しばらく経った慶長十年(1605年)頃のことです。

これが今日でも観光地として名高い、飛騨高山であります。

文禄三年(1594年)頃には、秀吉・御伽衆の一人になっていたようです。

金森長近は、禅宗と茶道に造詣が深いだけでなく、織田軍創世記からの生き残りのため、格好の話し相手となったのでしょう。

実際、秀吉と親しくしていたらしき話も伝わっています。

晩年の秀吉が、有馬温泉に行ったとき、長近が秀吉を背負って湯につかった……というのです。

あまり語られることのない話ですが、秀吉の晩年というと、おそらく1590年代。

長近は1524年生まれですから、少なくとも60代後半になっていたはず。

秀吉が小柄だったことを差し引いたとしても、長近が頑健な肉体を持っていたであろうことがうかがえます。

身長が高ければ、前田利家のように特記されていたでしょうから、特別大柄というわけではなかったのでしょうね。

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