佐久間盛政(鬼玄蕃)

佐久間盛政(鬼玄蕃)を描いた『佐久間盛政秀吉ヲ襲フ』作:楊斎延一/wikipediaより引用

織田家

鬼玄蕃と恐れられた佐久間盛政(勝家の甥)秀吉の誘いを笑って一蹴!

武勇に優れたことから「鬼」と称せられる戦国武将は数多います。

しかし、叔父と甥の二人揃って呼ばれるのは珍しい。

それが鬼玄蕃・佐久間盛政(甥)と、鬼柴田こと柴田勝家(叔父)。

織田家の中心にいながら、豊臣秀吉との争いに負け、二人ともほぼ同時期に己の意地を通して落命するという運命でした。

それは如何なる最期だったのか?

本稿では、天正11年(1583年)5月12日に亡くなった佐久間盛政の生涯を振り返ってみましょう。

 

佐久間盛政 信長に追放された信盛も親類

佐久間盛政は天文23年(1554年)、織田家家臣・佐久間盛次の嫡男として尾張の御器所西城(ごきそにしじょう)で生まれました。

【佐久間姓】からピンと来られた戦国ファンの方もおられましょうか。

そうです。

織田家の重臣にして、後に信長に追放される佐久間信盛とは親類。

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盛政の父である盛次が、信盛と従兄弟……と、少々こんがらがりそうなので、系図で見ておきましょう。

佐久間家の先祖を辿っていくと、三浦義明桓武平氏)に辿り着くとされています。

さらに佐久間盛政が織田家と縁深いのは、

◆佐久間盛政の母が柴田勝家の姉

◆佐久間盛政の娘・虎姫が中川秀成(中川清秀の息子)と結婚

という点でしょう。

明智光秀の娘・明智玉子(後の細川ガラシャ)が、細川藤孝の息子・細川忠興と婚姻関係を結んだように、織田家内で縁戚を作るのは家臣団結のため信長も推奨していたとされます。

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盛政の娘・虎姫の場合は秀吉の仲介によるものでしたが、いずれにせよ複雑に絡み合った婚姻関係が、後の争いでは余計に心苦しい展開になったり……。

その辺は後述するとして先へ進めましょう。

 

佐久間盛政の初陣は観音寺城の戦い

佐久間盛政の結婚は割と早いほうで、数え年12の1564年。

これまた親類である佐久間盛重の娘と結ばれました。

同年には娘の虎姫が生まれ、彼女は後に、中川秀成との間に7人もの子を産んでいます。

盛政の栄えある初陣は【観音寺城の戦い(1568年)】でした。

織田信長足利義昭を奉じて上洛したときに陥落させた、六角氏の本拠地ですね。

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後に鬼玄蕃として武勇を恐れられる佐久間盛政。

さすがに16才ですから初っ端から大活躍とはいかなかったようですが、程なくして参戦した【越前手筒山城の戦い(1570年)】で戦功を挙げると、さらに同年には、六角承禎と対した【野洲河原の戦い】で叔父の柴田勝家と共に活躍します。

鬼柴田に鬼玄蕃。

こんな叔父・甥コンビに敵として対峙されたらたまったもんじゃありませんね。

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『陳善録』(前田利家の言行録)によると、利家の家臣・村井長頼と共に敵将の首をとった佐久間盛政が、真っ先に叔父の柴田勝家に見せに行ったため、一番首の恩賞を信長からもらえなかったというエピソードもあるほどです。

※1571年延暦寺焼き討ち時における金ヶ森攻めの時

続けて1573年【槇島城の戦い】でも手柄を立てました。

打倒信長を掲げて挙兵した足利義昭を囲み、京都から追い出した一戦ですね。

これを受けて室町幕府は実質的に滅亡するのでした。

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信長包囲網が瓦解 越前を攻略する

お察しの通り、佐久間盛政の生涯は、柴田勝家ひいては織田家と共にあります。

足利義昭を京都から追い出した1573年は盛政にとっても一つの契機になりました。

幕府を滅亡させた――。

ということではなく、当時の織田家を苦しめていた【信長包囲網】、その中心にいた強敵・武田信玄が亡くなったのです。

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当時の包囲網とは、主に以下の5勢力でした。

・足利義昭
浅井長政
朝倉義景
・武田信玄
・石山本願寺

足利義昭は、毛利家を頼って最前線からは退いた状態。

信玄を喪った武田家は、まだまだ有力な家臣団が残っており、石山本願寺も大坂の本拠地が非常に堅強なため、スグに片付く相手ではありません。

そこで目を向けたのが浅井朝倉です。

信長はすぐさま両家に攻め込み(1573年8~9月)、浅井と朝倉を滅亡、つまりは近江と越前の平定に成功するのですが、これが佐久間盛政の生涯にも影響してきます。

1575年、叔父の柴田勝家が越前一国を与えられ、その与力として配置されたのでした。

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佐久間盛政は、強力な柴田軍でも先鋒を務め、以後、北陸の一向一揆戦などで際立った戦功を挙げていきます。

それは織田信長から感状を賜るほどで、1576年には加賀一向一揆勢に奪取された大聖寺城の救援を成功させました。

しかし北陸への進出は、同時に新たな敵をも刺激してしまうもので……。

信玄の次なる強敵が現れます。

上杉謙信と加賀の一揆勢です。

 

止まらない一揆勢の抵抗

1577年、謙信が南下してくると、両者は激突。

豊臣秀吉の戦線離脱などもあった柴田勝家軍は、軍神率いる上杉軍を相手に手痛い敗北を喫します。

この一戦は【手取川の戦い】として知られ、浅井・朝倉を撃破して勢いづく織田家の出鼻をくじいたものとなりました。

※詳細は以下の記事に

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佐久間盛政はこのとき戦闘には参加せず、御幸塚(現在の石川県小松市)に砦を築き、守備の責任者となります。

上杉に警戒しながら、同時に加賀の一向一揆諸勢力とも対峙せねばならない激戦のエリアでした。

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こうした状況でも怯まないのが盛政。

1580年11月、信長に佐久間一族の首領として認められて加賀金沢城(尾山城)の初代城主となり、加賀半国(13万石)の支配権を与えられると、加賀一向一揆との戦いに没頭していきます。

一揆勢は霊峰白山の麓に勢力を有していて、強固な拠点・鳥越城を持っていました。

鳥越城/photo by Satoshin wikipediaより引用

鳥越城は、今なお地元に一向一揆の資料館があるほど浄土真宗の強いエリア。

特に、山内衆という強力な一揆勢もいました。

一説にそのルーツは紀州(熊野信仰)で、本願寺や雑賀衆との繋がりがあり、鉄砲の技術を中心とした軍事力を有していたと言います。

盛政は、この山内衆を制圧しようと襲いかかりますが、二度に渡って失敗、600近い将兵を失う惨敗を喫してしまいました。

そこで路線を変更。

信長と本願寺顕如の手打ちに合わせて、一揆勢のリーダーに和睦を持ちかけ、謀殺……と、これが成功するのですが、この後も鳥越城の支配をめぐる戦いは続きます。

石山本願寺でも、顕如と教如の親子が対立しており、教如が断固戦いを主張すると、鳥越城もそれに応じたのです。

さすが一向一揆の一大拠点だけあって、そう簡単には落とせない。

一進一退の戦いが続く中、いつしか佐久間盛政の激しい戦いぶりは敵味方にも畏怖され、

「鬼玄蕃」

と呼ばれるようになりました。

そして天正10年(1582年)、平定に散々苦労していた一揆勢をついに壊滅させます(鳥越城の戦い)。

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