吉弘統幸/wikipediaより引用

大友家

もう一人の九州最強・吉弘統幸(宗茂の従兄弟)が戦国大友家で奮戦!

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秀吉の怒りを買って大友義統はアッサリ改易

統幸らの働きによって命と立場を拾った義統。

その後、天正二十年(1592年)【文禄の役】で大ポカをやらかしてしまいます。

小西行長からの救援要請が来たとき、直後に「小西隊全滅」の誤報も来たため、救援に行かず撤退してしまったのです。

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これが秀吉の怒りを買い、あっさり改易されてしまいました。

といっても、小西隊からの救援要請をスルーした大名は他にもいたのですが。秀吉に報告される途中で何らかの恣意が働いたんですかね。

あるいは「(元から能力が疑わしい)義統に、九州北部という(唐入りに関しての)前線地域をずっと任せておけない。今度のことは改易する良いキッカケだわ」と判断されたのかもしれません。

大名本人がアレでも、家臣が優秀で生き残ったという例はいくつもあるんですけどね……大友家臣の優秀さは折り紙付きですし。

義統はあっちこっちの大名にたらい回しにされ、同家の家臣については助け舟が出されました。

吉弘統幸もその一人で、黒田如水黒田官兵衛)に招かれ、黒田家の重臣・井上之房の家に一時預けられています。

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ほとぼりが冷めると、柳川城主として秀吉の直臣大名になっていた立花宗茂の元へ身を寄せて仕え、2000石を与えられました。

【慶長の役】では、立花軍の一員として参加しています。

そりゃ立花隊が強いわけですわ。

 

旧主を見捨てることができず関ヶ原では西軍へ

慶長五年(1600年)の時点で、吉弘統幸は立花家におりました。

しかし、当時の大友家当主・大友義乗(よしのり)は、このころ徳川家に仕えており、家康に「今度の戦で手柄があれば、豊後一国で大名に復帰させても良い」と言われたこともあり、東軍で働く決意を固めていたといいます。

そのため、吉弘統幸も立花家を辞して東へ向かい、義乗の下へ馳せ参じようとしていました。

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そこで運命の歯車が狂い始めます

隠居していた義統が西軍につき、力尽くで旧領を取り返そうと考えたのです。

あれだけ優秀な家臣がいて改易されたのに、よくそんな大それたことを考えたものですが……。

旧領に戻ったとき、旧大友家臣や周辺の有力者がぞろぞろ集まってきたというのですから、名家の威光たるや(あるいは担ぎ上げられたか)。

東へ向かっていた吉弘統幸も途中で義統と出会い、話を聞くと「義乗様は徳川方につくおつもりですから、どうかご一緒に」と進言しました。

これを義統は聞き入れません。

旧主を見捨てることもできず、統幸は義統に従います。

引き返すことのできない最後の分岐点でした。

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