大友宗麟(大友義鎮)

大友宗麟(大友義鎮)/wikipediaより引用

大友家

大友宗麟(義鎮)は戦国九州の王者か非道の暗君か?58年の生涯まとめ

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毛利と盟約を交わし弟を見捨てた?

新たに肥前守護となった宗麟は、続いて豊前・筑前といった北九州に攻略の矛先を向けました。

このころ中国地方では大内氏に代わって毛利氏が勢力を拡大させており、宗麟の弟・義長は毛利元就の侵攻に苦しんでいました。

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当然、兄に対し救援を懇願します。

「大内が危ないです。助けてください!」

ところが宗麟は、あえて大掛かりな援軍を行いません。

結果、弘治元年(1554年)に陶晴賢が【厳島の戦い】で敗死し、追い込まれた大内義長も弘治3年(1557年)、自害を余儀なくされました。

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宗麟にしてみれば、弟の治める領国が奪われるのは歓迎すべき事態ではありません。

それでも彼を救わなかった理由としては、元就との間に「義長討伐を邪魔しなければ、大友の豊前・筑前攻略も邪魔しません」という盟約が交わされていたためだと言われます。

悪く言えば「弟を売った」とも見れるわけです。

しかしながら、宗麟が相手にしていたのはあの元就です。表向きは手出しをしないように見せかけ、その実、豊前・筑前の国衆らに調略を仕掛けて一揆を扇動しました。

結果、山田隆朝や秋月文種といった勢力が宗麟の前に立ちはだかり、反対勢力の一掃に追われます。

 

8か国の守護&九州探題に就任!絶頂期を迎える

弘治3年(1557年)には山田隆朝が反発の構えをみせたため、宗麟も「息子を人質として差し出せば許してやらんこともない」と説得にかかります。

しかし隆朝はこの誘いに乗らず、宗麟も討伐を決意。

たちまち城を攻め落とすと、一族郎党の首を片っ端から刎ねるという手法で山田氏を殲滅しました。

続いて、筑前で独立勢力として力をつけていた秋月文種(あきづきふみたね)の討伐に乗り出し、古処山城(こしょさんじょう)に籠る彼らを大友家臣の吉弘鑑理(あきまさorあきただ)らに攻撃させます。

古処山城は標高1,000メートル近い場所に位置する山城で、正面からの攻略は難しいとされていました。

そこで鑑理は一計を案じ、城内に内通者を出して文種の殺害に成功。

宗麟は豊前・筑前を支配下に収め、この支配は幕府にも追認されました。

以前から幕府に対し莫大な献金工作を図っていたことも相まって、宗麟は永禄3年(1559年)に周防・長門の守護職までをも与えられます。

結果、宗麟は北九州を中心に計8か国の守護となり、加えて九州探題の名誉も手にする【九州の支配者】となりました。

こうして戦国大名としての大友氏、ならびに自身の生涯における絶頂期を迎えた宗麟には、今後さらなる躍進が待っている……かに思われました。

 

人生初の「挫折」33歳の若さで出家

名実ともに九州の覇者となった宗麟は、その後、獲得した領地の維持や反乱鎮圧に追われました。

彼らの躍進を妨害したのは毛利元就であり、大友配下の家臣や国衆を巧みに引き入れ、北九州へ手を伸ばします。

もちろん宗麟も黙ってはいません。

永禄2年(1558年)、門司城をめぐって毛利氏との合戦に及び、以降、この城は大友と毛利が占領と奪還を繰り返す激戦地となりました。

永禄4年(1561年)には、尼子氏攻略に専念していた元就に代わって、その三男・小早川隆景が送り込まれ、海上封鎖で宗麟を追い込みます。

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大友軍は門司城の奪還をひとまず諦めて撤退しましたが、隆景の巧みな追撃により撤退中に大損害を被ったと言われています。

この門司城における敗北は、宗麟に大きなショックを与えました。

これまで宗麟は、特段の苦労をすることなく8か国の守護に上り詰めており、人生初の「挫折」であったという指摘もあるほどです。

そして、彼はこのショックを払しょくするため33歳の若さで出家。

名を「宗麟」と改め(以前は義鎮)、豊後府内の統治を長男・大友義統に任せて自身は臼杵の地に城を築き、移住しました。

 

毛利との激しい攻防に追われ

仏道に専心して気力を養った宗麟は、毛利氏に占領された豊前への再遠征を決断します。

永禄5年(1562年)には立花道雪・吉弘鑑理を中心とした遠征軍を組織し、敵の拠点である豊前松山城および香春岳城を攻撃しました。

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ところが、この豊前松山城は非常に攻めづらい城であったようで、大友選りすぐりの猛将たちでも落とすことができません。

彼らは豊前松山城の包囲を継続しつつ、並行して因縁の地・門司にも進行していきました。

この地での合戦では大きな戦果を挙げたものの、やはり門司城を落とすまでには至らず……。

戦が長期化していく中で、両陣営は講和を模索するようになります。

特に毛利氏は尼子氏との抗争に手いっぱいであり、大友軍に構っている暇はありませんでした。そもそも今回の大友vs毛利の戦は、尼子氏が宗麟に要請して始まったものですから、ここは尼子氏の作戦勝ちといったところでしょう。

ところが元就は、ただ粛々と講和を受け入れはしません。

彼は交渉の傍ら、引き続き豊前・筑前の国衆へ挙兵を促しており、中々まとまらない交渉にイラ立つ宗麟の様子が確認できます。

最終的に将軍・足利義輝の仲立ちで永禄7年(1564年)に講和は成立しますが、その後も毛利の工作は止まらず、早くも交渉成立の二か月後には「元就が約束を守っていない!」と大友方が抗議する事態に発展します。

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苦しいはずの毛利がなぜそんな真似を?

というと実はこのころ「尼子氏との抗争」が片付き、大友と戦う余力ができていたと見なせます。

元就が執拗に進めてきた国衆への調略が実を結び始めており、大友方から離反者が続出する事態になっていたことも大きいでしょう。

毛利による狡猾な外交は、徐々に確実に、大友家を蝕んでいたのです。

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