絵・富永商太

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【四国戦国譚】なぜ名門一条家は土佐に下向した?初代教房から七代政親で滅亡

武家であっても公家であっても。

家を残す執念は並大抵のものではなく、文字通り「手段を選ばない」という感があります。

本日はその一端がうかがえるかもしれない、とある家に注目。

応仁二年(1468年)9月6日は、一条教房が土佐(現・高知県)へ下向した日です。

一条家といえば、公家の中でも特にエラい家。そんな貴族がなぜ、都から遠い土佐へ行ったのか?

ヒントは「年号」でして……。

そう、彼らは【応仁の乱】の戦火を避けるために、わざわざ海を超えて土佐へ渡ったのでした。

なぜ土佐なのかというと、一条家は土佐幡多荘(現・高知県四万十市全域+α)を【荘園】として持っていたからです。

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「中村御所」と呼ばれるほどの町に発展

土佐に逃げる前の教房は、奈良の荘園に避難しておりました。

そこへ父・兼良がやってきたため、場所を譲って四国に渡ったのだとか。すごい親孝行ですね。

ついでに言うと、教房の長男・政房は福原のお寺に隠れていたのを東軍の武士に見つかり、問答無用でブッコロされています。

教房が本拠を中村(現・四万十市中村)に定め、その後、上方に戻ろうとしなかったのは、命惜しさが半分、長男の命を奪った者がいる場所に近づきたくなかったのが半分……だったのかもしれません。

中村は、教房のお供をしてきた公家・武士・職人たちによって町並みや寺社が作られ、息子の房家の代には「中村御所」と呼ばれるほどの町になりました。

残念ながら、昭和二十一年(1946年)の地震で壊れてしまったものが多く、現在、一条家時代の建築物はほとんど残っていないそうですが……。

一條神社 本社拝殿と天神社/photo by Saigen Jiro wikipediaより引用

まあそれはともかく、中村は教房から五代にわたる「土佐一条家」のもとで栄えていきます。

厳密に言えば七代まであるんですが、まあその……二代目の人から順々にみていきましょうか。

 

公家らしく外交感覚に長けていた

二代・房家からは、一条家の当主も土佐で生まれています。

房家の代に中村が立派な町になったのは上記の通り。外交感覚にも長けていて、嫡男・房冬の正室に宮家の姫、側室には大内義興の娘(義隆の姉妹)を迎えさせました。一方で、次男の房通は京都の本家に婿養子に出しています。

つまり、どう転んでも土佐一条家が生き残るような選択をしているというわけです。この辺の武力を使わない闘いは、さすが公家という感じがしますね。

三代・房冬からは、京や公家との関係より土佐周辺の豪族や大名との関係を重視するようになっていきました。

これも、嫡男・房基の正室選びに現れています。

自分の時のように宮家や公家からではなく、有力大名であった大友義鑑の娘(大友宗麟の姉妹)を選んだのです。

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また房冬自身は父・房家の死から二年後に亡くなっているため、他に目立った功績はないのですが、貿易に力を入れていたらしいということがわかっています。

琉球王国や李氏朝鮮、はたまた明・東南アジアとも交易していた可能性があるとかないとか。

もともと日向~土佐~紀伊のエリアは独自の貿易圏があり、例えば紀伊の雑賀衆は傭兵だけでなく貿易で潤っていたという話もあります。

だから鉄砲も早い時期に入手して、傭兵になった、という見立てですね。

戦国史ではあまり注目されないエリアだけに、この辺もっと研究やその成果が広まると面白いですよね。
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