稲葉一鉄(稲葉良通)

稲葉一鉄(稲葉良通)/wikipediaより引用

斎藤家

信長に寝返った美濃三人衆・稲葉一鉄は生涯74年でどんな働きをしたか

今日用いられている慣用句やことわざの中には、人名や特定の個人に由来する物が少なくありません。

例えば「頑固一徹」。

いかにも手厳しいコワモテオヤジなイメージですが、実はこれ、戦国武将だった【稲葉一鉄(稲葉良通)】からきているのをご存知でしょうか?

一徹(いってつ)

一鉄(いってつ)

名前そのまんまですが、となると気になるのは元ネタになった稲葉一鉄も、さぞかし頑固な武将だったのではなかろうか?というところでしょう。

実はこの一鉄。

美濃三人衆(西美濃三人衆)と呼ばれ、織田信長が美濃へ攻め込むとき、非常に重要な役どころを担った武将でもあります。

大河ドラマ『麒麟がくる』では村田雄浩(むらたたけひろ)さんが演じられ、斎藤高政(斎藤義龍)に色々と陰謀を吹き込む立場でもありますね。

ドラマではなかなか悪人タイプで描かれておりますが、史実では大名として一族は生き残ります。

では、一体いかなる道筋を辿って、子孫にバトンを繋いだのか。

天正17年(1589年)11月19日が命日となる、稲葉一鉄の生涯を振り返ってみましょう。

※「一鉄」は出家後の号ですが、馴染み深いので統一させていただきます

※以下は斎藤義龍の生涯まとめ記事となります

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六男の稲葉一鉄は幼い頃にお寺へ預けられた

一鉄は永正十二年(1515年)、稲葉通則の六男として美濃で生まれました。

もともとの出自は、伊予国・河野氏の血を引くとされ、祖父の稲葉通貞が何らかの理由で美濃に移り住んだというのが定説であり、伊賀氏の末裔という異説もあります。

いずれにせよ六男ですから、一家を継ぐのは厳しいポジション。一鉄は、幼い頃に崇福寺へ出され、僧侶の道を歩んでいました。

師匠は快川紹喜でした。

あの武田信玄に招かれ甲斐の恵林寺に入った名僧であり、後に「心頭滅却すれば火もまた涼し」というセリフで有名になる御方です。

絵・小久ヒロ

当時のお寺は大学(最高学府)のような機能も有していたので、大名や有力国衆の子息が通うことはそう珍しくありません。

著名なところでは、今川義元もそうですし、足利将軍(義教とか義昭)などもそうですね。

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しかし、大永五年(1525年)、突如、一鉄の運命が動き始めます。

【牧田の戦い】で、父と5人の兄達が全員、浅井亮政(長政の祖父)との合戦で戦死してしまうというハードモードに直面したのです。

一鉄は、急遽、実家へ戻ることになり、祖父・通貞と、叔父・忠通に後見されて、家督と曽根城(大垣市)を継ぎました。

このとき満10歳。

つい最近まで寺にいた子供が、武家の当主になるという凄まじい展開です。

 


美濃は土岐家から斎藤家へ

実家に戻った一鉄は、土岐頼芸に仕えていました。

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美濃の守護・土岐家の跡取りであり、御家騒動で何かと不運な道を歩まれる方です。

大河ドラマ『麒麟がくる』では尾美としのりさんが演じておりましたよね。

というのも、この頼芸、美濃国内で跡目争いをした後、斎藤道三に下剋上を起こされ、近江へ脱出。

後に快川紹喜を頼って武田信玄のもとへ走るのです。

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以降の一鉄は、道三に従うようになり「美濃三人衆(西美濃三人衆)」と呼ばれる重臣の一人にまで上り詰めました。

土岐家から斎藤家へ。

戦国時代の定番である守護の移り変わりで一鉄も浮上していったのですね。しかし……。

 


義龍は甥っ子だったとも……

道三の時代も長くは続きませんでした。

弘治二年(1556年)に斎藤道三と斎藤義龍の親子対立が激化すると、【長良川の戦い】へと発展してしまい、道三が破れてしまうのです。

長良川の戦い
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当然、一鉄も……と思いきや、ここでは義龍の味方をしておりました。

あるいは一鉄という重臣の助力もあったので、斎藤義龍が勝てたという見方もできそうです。

ではなぜ、一鉄は義龍に肩入れしたのか?

義龍の母である深芳野が、一鉄の姉だった(つまり一鉄と義龍は叔父と甥っ子の関係だった)ことも影響したという説もあります。

要するに、一鉄からすれば、義兄である道三よりも、血の繋がった甥の高政(義龍)に味方したくなったのでしょう。

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稲葉山城乗っ取り事件で龍興を見限った

しかし、義龍が亡くなってその息子・斎藤龍興の代になると、雲行きが怪しくなります。

龍興の行状があまりよろしくなかったのです。

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一鉄を含む西美濃三人衆(他は安藤守就氏家卜全)は、たびたび諫言を繰り返し、それでも全く改まりません。

見かねた安藤守就が、娘婿の竹中半兵衛(重治)と共に【稲葉山城乗っ取り事件】というキョーレツな手法で龍興を目覚めさせようとしました。

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しかし、それでも何ら効果はありません。

事ここに至り、龍興を見限る決断をした三人衆……。

永禄十年(1567年)に織田信長へ内応すると、電光石火で信長は動き、そして稲葉山城を攻略し、その後は三人とも織田家の家臣となったのです。

織田家での一鉄は、なかなか重宝されたと見受けられます。

足利義昭を奉じて行われた永禄十一年(1568年)の上洛戦に始まり、

永禄十二年(1569年)大河内城の戦い

元亀元年(1570年)金ヶ崎の戦い

元亀元年(1570年)姉川の戦い

など、当時、織田家で行われた主な戦場へ顔を出しております。特に……。

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