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道三に贈られた深芳野は既に身ごもっていた!?
さて、いよいよ歴史のお話です。
戦国時代に、前夫の子を利用し、その子に滅ぼされた武将がいるのをご存知ですか?
「美濃のマムシ」と恐れられ、天下の梟雄として知られる「斎藤道三」です。
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きゃあ、テンション上がるぅ。
大河ドラマ『麒麟がくる』でも描かれていたように、油売りの商人から身を立てたのは道三ではなく彼の父――親子二代で下剋上を果たしたというのが最近の有力説。
なんやかんやで美濃の有力者・長井長弘に仕えることになり、さらに長弘の紹介でその主君・土岐頼芸(よりあき・よりのり)に仕官します。
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頼芸は当時の美濃を治めていた土岐氏の一族。
次男であった頼芸は兄との跡目争いに負けていたのですが、道三はそんな彼をそそのかして1527年にクーデターを起こさせ当主の兄を追放、頼芸を美濃の大名とします。
この一件で道三を気に入ったのでしょう。
頼芸は、クーデターの前年に自分の愛妾・深芳野を道三に贈るのですが、これが後の斎藤家悲劇の源となります。
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深芳野が道三に贈られたのが1526年の12月で、子の長男・義龍が生まれたのが翌年6月10日。
あれ?
なんか早くない?
と思ったアナタ。
そうなんです。実は「深芳野の腹には頼芸の子がいた」との説があるのです。
他の男の子供なんてたまったもんじゃない――と普通の男性なら躊躇するところでしょうが、そこは道三がマムシと呼ばれる所以。
彼はこの話を利用して、ついに美濃を支配するに至ります。
戦国の三大梟雄とも言われたりする彼の手口を見て参りましょう。
自ら「義龍は頼芸の子」という話を利用する
美濃の大名となった頼芸の元で道三は着実に力をつけていきます。
そしてライバルを蹴落とすべく有力家臣であった長井長弘を殺害し、同家を乗っ取りました。
権力のためなら元の主君もいとも簡単に殺害。この時代ならでは、さすがとしか言いようがありません。
そしてついにクーデターを起こします。
天文11年(1542年)、道三は頼芸を追放し美濃国を手に入れるのです。
むろん頼芸も黙ってはおらず、甥と手を結び、織田の後ろ立てを得て美濃奪還を計りますが、これに失敗。
道三は織田と和議を結び、織田信長に娘を嫁がせます。
これが有名な濃姫ですね。
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さらに道三は美濃平定のため、あろうことか「義龍は頼芸の子」という話を利用するのです。
というのも当時、成り上がり者の道三に反感を持つ人は少なくなかった。
元の主君である土岐家に義理を感じる家臣もおり、彼等を手懐けるためには何かキッカケが欲しい。
そこで義龍が頼芸の子かもしれん、ということにしておけば「道三は嫌いだが、義龍は土岐家の血を引くし……まぁ、我慢してやるか」となる、という。
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しかし、これはまさに目先の利益でした。
道三はこの話に足元をすくわれ命を落としてしまうのです。
私は実の子ではない?殺されるかもしれない
天文23年(1554年)、道三は家督を斎藤義龍へ譲り、頭を丸めて僧になります。
そのまま大人しく念仏三昧していれば平和だったのですが、道三は弟たちを可愛がり、義龍の嫡廃を考え始めました。
これを知った義龍はきっとこう思ったでしょう。
『やはり私は実の子ではない。となれば、きっと道三は私を嫡廃するだろう。あのマムシのことだ、もしかしたら殺されるかもしれない!』
DNA鑑定ができればそんなこともなかったんでしょうけどね。
当たり前ですが不可能な話です。
かくして弘治元年(1555年)、義龍は二人の弟達を殺し、
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道三に反旗を翻します。
土岐氏の旧臣は皆義龍に味方。
弘治元年(1555年)4月、【長良川の戦い】で義龍に敗れた道三は63歳で生涯を閉じました。
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道三、後から気づいた「義龍、意外にできるやつ」
道三は、身体が大きく本が好きな義龍を「無能」と評価していました。
が、長良川での采配を見て考えを改め、後悔したとも言います。
ほんと自業自得としか言いようがありませんが、その後、義龍存命の頃の斎藤家は、織田信長を相手にしても怯むことなく迎え撃って美濃を守っておりましたので、その才覚はマムシの血を引いていたかもしれません。
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もしも!
当時DNA鑑定があれば、美濃をあらかた平定した後に鑑定を行い、「やっぱりオレの子じゃん!」という具合に斎藤家は堅強となり、織田家に滅ぼされるどころか逆に尾張へ侵攻していたなんてことも……。
歴史にIFは禁物なれど、こういう妄想ができるからこそ面白いですよね。
★
ちなみに信長さん、長良川の戦いで戦場に出向き、道三が討ち取られてしまったため、命からがら撤退しているんですが。
このとき自ら殿(しんがり・危険な最後尾のこと)を務めた――なんて驚きの話があります。
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当主自らなんて考えられない行動。
やっぱり斎藤家は勝てなかったかなぁ……。
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文/馬渕まり(忍者とメガネをこよなく愛する歴女医)
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【参考】
デオキシリボ核酸/wikipedia
遺伝子・DNAの謎に挑んだ歴史/ヤクルト(PDF)
DNA複製/wikipedia
タンパク質/wikipedia
セントラルドグマ/wikipedia
コドン/wikipedia
染色体/wikipedia
ヒトゲノム/wikipedia
e-kantei
DNA鑑定の倫理学的考察/京都大学
DNA鑑定/wikipedia
DNA 型鑑定による個人識別の歴史・現状・課題/行政法務調査室
科学技術の活用/警察庁
再婚/wikipedia
斎藤道三/wikipedia
深芳野(斎藤道三側室)/wikipedia
斎藤義龍/wikipedia
土岐頼芸/wikipedia