土岐頼芸

斎藤家

道三に追われ信玄に拾われた土岐頼芸~美濃の戦国大名83年の生涯

大河ドラマ『麒麟がくる』で、地味に存在感を発揮していた土岐頼芸(ときよりあき)。

尾美としのりさんが演じたその戦国大名は、ド派手な立ち振る舞いはないけれど、ねちっこい政治&外交話ならば持ってこい――そんな印象でドラマ前半を盛り上げてくれました。

実際、史実の土岐頼芸さんは、ゴタゴタした政局に振り回された生涯を送っています。

「美濃のマムシ」こと斎藤道三に担がれ、ハシゴを外され、気がつけば甲斐へ。

天正10年(1582年)12月4日が命日となった、土岐頼芸の生涯とはいかなるものだったのか?

その史実に目を向けてみましょう。

 


政情不安の美濃に生まれた土岐頼芸

土岐頼芸は文亀元年(1500年)、美濃国守護職にあった土岐政房の次男として誕生しました。

室町時代の守護は言うまでもなく高い身分。

平時であれば、頼芸も安寧とした生活を送れたところでしょう。

しかし、彼の生まれた時代は不幸にも【応仁の乱】で幕府の権威が失墜していた戦国時代です。

さらに、美濃国といえば「下克上」の代名詞ともいえる斎藤道三が猛威を振るった地でもあり、勘のいい方なら頼芸の生涯がどのようなものになるか、既に想像がついているかもしれません。

そうです。

頼芸は土岐家のお家騒動や美濃の権力闘争まみれの生活を送るのです。

そもそも応仁の乱は、家族や親戚が敵味方ごちゃ混ぜになって戦うパターンが全国へ拡大したもの。

「裏切りと同盟があざなえる縄のごとし」で、乱そのものが非常にわかりにくい。

跡目争いは将軍家のみならず全国の守護家で頻発しており、土岐家も例外ではありませんでした。

 


道三の父ちゃん・松波庄五郎も台頭する

まず、彼が生まれた時期は、すでに美濃国内の権力闘争は収拾がつかない状態でした。

守護の土岐家は、明応4年(1495年)【舟田の乱】というお家騒動を巻き起こし、守護家の勢力が低下すると同時に、ドサクサに紛れて新興の家臣・長井家一族が台頭。

彼らに仕えていたのが斎藤道三の父である松波庄五郎です。

斎藤道三は、油売りから一代でのしあがった下剋上の代表とされます。

しかし、通説で伝わる道三の半生が、実はこの松波庄五郎の話だったのではないか?と指摘されていて、有力な見方となっております。

ともかく長井家と松波庄五郎(斎藤道三)の台頭がありました。

※以下は斎藤道三の生涯まとめ記事となります

斎藤道三
マムシと呼ばれた戦国大名・斎藤道三の成り上がり63年の生涯まとめ

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次に、土岐氏の重臣として守護代を任されていた斎藤家にも注目。

ややこしいですが斎藤道三の家系とは違う斎藤家でして。こちらの斎藤家でも有力当主や嫡子が相次いで戦死し、長井家の台頭を許す結果になっているのでした。

こうした環境の下に生まれた頼芸は、まるで事態をさらにややこしくするためかのように守護の父に溺愛され、それが原因で長男の土岐頼武と対立していくようになるのです。

いつしか彼ら兄弟の確執は政争に利用されるようになり、頼芸は長井家当主であった長井長弘や松波庄五郎に支持されると、頼武もまた守護代である斎藤家を後ろ盾とするようになりました。

図式で表すとこんな感じですね。

兄:土岐頼武 with 斎藤家
vs
弟:土岐頼芸 with 長井&松波

こうして頼芸による権力獲得への旅が本格スタートするのですが、内部分裂が多すぎて処理しきれていない方も多いかもしれません。

書いている筆者でさえ「いったい何してんだ……」と感じます。

ただ、だからこそ斎藤道三の下克上が成功したとも言えるのですね。

 


暗殺で敵勢力を排除した!?

後継者争いと権力闘争がセットとなったことで兄弟の対立は深刻化。

ついに永正15年(1517年)に合戦が勃発します。

この戦いは土岐政房と斎藤家の有力者である斎藤利良の争いと目されていたようで、史料を見る限りは「土岐方の大敗」つまり頼芸を支持する政房側の敗北となったようです。

しかし、政房は諦めません。

かわいい頼芸に家督を継承させるべく、敗戦からわずか半年後に再び挙兵して、今度は政房方の勝利に終わったようです。

その証拠に斎藤利良は、土岐頼武を連れ、朝倉家の越前へと逃れています。

それでも、です。

この戦で土岐頼芸が後継者に確定!とならないのですからややこしい。

永正16年(1519年)、なんとまぁタイミング悪く土岐政房が亡くなってしまうのです。

史料に具体的な記述はありませんが、敵対していた土岐頼武方にとっては都合がよすぎるため、個人的には「暗殺に近い手段が取られたのでは?」と疑っています。

 

朝倉家のバックアップもあり無事に家督継承

そして守護の土岐政房が亡くなってからわずか3か月後。

斎藤利良と土岐頼武は越前から帰国し、今度は大きな争いもなくそのまま家督を継承したようです。

もともと継ぐ予定の嫡男でしたし、朝倉家のバックアップもありました。

一時的にせよ頼武が守護職にあったのは、彼名義での知行書などから確認できます。

彼が在職中は美濃にひと時の平和が訪れていたようで、彼を支持した斎藤利良も別格の立場にありました。

頼武の治世によって、一応の決着がついたお家騒動。

しかし、この間にも頼芸は虎視眈々と守護の座を狙っていたのです。

大永5年(1525年)、再び挙兵した頼芸は、斎藤利良を戦死させると共に、兄の土岐頼武を没落(または死亡)に追いやって守護の座を確保しました。

ちなみに、このときの背景には浅井家と朝倉家の事情もありました。

織田信長の時代の【浅井&朝倉】は盟友として知られますが、当時は朝倉家と六角家が手を組み、浅井亮政を美濃へと追いやっていたのです。

浅井家の小谷城と美濃の稲葉山城はかなり近く、現代の道路で約57km。

浅井亮政を保護した土岐頼芸は、朝倉を支持する土岐頼武を攻める理由として合戦を挑み、念願の守護職を手にしたわけです。

かくして、ようやく彼の時代が訪れる……とはなりませんでした。

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