戦国大名には、後に大きく飛躍するためのキッカケとなる敵対勢力がいるものですが、あの【美濃のマムシ】として恐れられた斎藤道三にも「噛ませ犬」的なキーマンがおりました。
それが土岐頼純です。
普段はほとんど注目されないこの武将。
2020年大河ドラマ『麒麟がくる』でも一瞬の登場ながら、道三(本木雅弘さん)の前で【毒殺される】という非常に重要なシーンを担っておりました。
出番は少ないながら当時の政局に一石を投じた――土岐頼純の生涯を追ってみましょう。
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土岐頼純の父とおじが対立する美濃国に生誕
土岐頼純は大永4年(1524年)、美濃国守護の家系である土岐頼武の長男として生まれました。
叔父には美濃守護の土岐頼芸(頼武の弟)。
そんな名族の生まれでしたが、当時の美濃国は土岐氏の勢力が衰退しており、家臣であったはずの長井氏や斎藤氏が主家をしのぐ勢いで台頭していました。
さらに周辺諸国の六角氏や朝倉氏の介入もみられ、非常に不安定な政情にあったのです。
こうした諸勢力の対立は、「頼武・頼芸兄弟」の父である土岐政房を巻き込み、一族内での権力争いに繋がりました。
政房は、長男だった頼武を軽んじて、頼芸を後継者に据えようとしたのです。
しかし、斎藤氏の有力者であった斎藤利良が、政房の意向に反して頼武を担ぎ出したところから、両者は骨肉の争いに明け暮れることに……。
わかりやすく図式化すると以下の通りですね。
土岐頼芸(弟)&土岐政房(父)
vs
土岐頼武(兄)&斎藤利良(家臣)
そして永正15年(1517年)、両者の間で初の衝突!
緒戦は一進一退の攻防を繰り広げました。
最終的には、政房&頼芸親子の勝利で幕を閉じ、利良は頼武を引き連れ、彼らに友好的であった越前朝倉氏のもとへ落ち延びてゆきます。
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政争を制した頼芸は無事に美濃国主の座に就く……と思われましたが、ここで不運不幸なことが。
最大の支持者であり、父でもある政房が亡くなってしまうのです。
頼武が朝倉氏の力を背景に家督を継承
「チャンス到来!」とばかりに息巻いたのが斎藤利良でした。
利良は、頼武を連れて帰国すると、現在の岐阜県山県市にあった大桑城を本拠とし、もともと頼武が嫡男であるという正当性や、朝倉氏の力を背景にして家督の継承に成功します。
以後、美濃国にはひとときの平和が訪れました。
頼武は守護として治世を行っていた形跡が確認でき、利良も彼の右腕として活躍していたのでしょう。
しかし、美濃国主の座を諦めなかったのが土岐頼芸です。
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頼芸は、当時朝倉・六角氏と対立していた浅井氏の支持を得て、大永5年(1525年)に挙兵。
利良を戦死させ、兄の頼武を歴史上から消し去りました。
明確に死亡したという記録はありませんが、消息が絶たれたことからこのとき頼武は死亡したと考えてもよいでしょう。
以上ここまで、頼純の父である土岐頼武と、おじである頼芸による政争の経過を記してきました。
土岐頼純に何の関係が?
と思われたかもしれませんが、大いにあるのです。
実は、頼武・頼純親子には「同一人物説」もあり、その場合「頼武の生涯」とされている部分も「頼純の生涯」と考えられるのです。
朝倉氏・六角氏の力を背景に美濃へ帰国
頼武が歴史上から姿を消した大永5年、頼純はまだ数え年で2歳という幼さでした。
しかし、国内の政争で父が敗れて頼芸が国主の座に就いたため、幼き頼純の立場もかなり怪しくなります。
頼芸にしてみれば「平清盛から見た源頼朝」のように将来の敵になる可能性もありましたし、それ以上に「頼武派」にとって格好の旗印になりかねなかったからです。
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要は、息子の土岐頼純を担ぐ連中を危惧したんですね。
となれば、一刻も早く甥の頼純を消し去りたかったはず。
しかし、頼武・頼純を支持した一派とて、その点、注意しないワケがありません。
おそらくや彼らの手引きによって、頼純は近江国に亡命、当時まだ勢いのあった六角氏に匿われていたと推測されます。
一方、守護の座に就いたばかりの頼芸に、近江国を攻める余裕などありません。
彼はいったん頼純を捨て置き、国内の支配体制構築に注力しました。
当時の美濃では、すでに斎藤道三が台頭しており、頼芸は道三と二人三脚で国政を動かしていました。
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しかし、天文4年(1535年)になると美濃に戦乱の影が確認できるようになり、周辺事情はキナ臭くなっていきます。
おそらくや頼純の帰国を実現させるために発生した小規模な合戦――これが翌天文5年まで続き、この小競り合いの結果、頼芸陣営が「頼純の帰国」と父の遺城であった「大桑城の支配」を認めざるを得なくなります。
頼純帰国の背景には、彼を支援した朝倉氏・六角氏の力がありました。
彼らは頼純の帰国を心から願っていたというより「頼芸・道三を美濃国主から引きずり落とす」のが狙いであり、頼純を大義名分として利用したのでしょう。
結果としてその目的を果たすまではいきませんが、頼芸と頼純は国内で権力を二分する形となり、さながら「二頭体制」が敷かれるようになります。
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