土岐頼純

土岐頼純/wikipediaより引用

斎藤家

戦国美濃で起きた兄弟骨肉の争い~土岐頼純はマムシの道三に暗殺された?

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尾張の織田信秀に助けられ

頼純と頼芸の講和によってひとときの平和が訪れた美濃。

天文12年(1544年)に再び彼らの間で争いが発生します。

大桑城に入っていた頼純が道三によって攻め込まれたものと思われ、彼は母とともに命からがら城を脱出するのです。

このとき彼らを助けたのは、隣国・尾張で勢力を拡大しつつあった織田信秀でした。

織田信長の父ですね。

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勢力拡大の過程で美濃侵略を目論んでいた信秀は、頼純を支援することで道三の追い落としにかかったのでしょう。

頼純母子は尾張に逃げ込むと、信秀は朝倉氏にも出兵を要請。

天文13年(1545年)、織田・朝倉連合軍と頼芸勢力の大規模な戦が幕を開けました。

この戦は序盤こそ信秀の思惑通り優勢に進んでいる……かに思えたものの、一説によると、この頼芸軍の苦戦はあくまで道三の計略でした。

彼らは稲葉山城に敵軍を引き寄せ、油断したところに猛攻撃を浴びせたようです。

結果として信秀は大敗し、頼純も帰国を果たすことはできませんでした。

 

後に信長の正妻となる帰蝶と結婚?

織田信秀を追い返した手腕――さすがは戦国三大梟雄の道三といったところです。

信秀としてもこの結果は予想外だったのではないでしょうか。

ただし、戦勝の要因は計略だけに限りません。

道三はかねてより好意的であった浅井氏を味方につけただけでなく、先の頼純入国に際しては敵対していた六角氏と土岐氏の間に婚姻関係を構築。

彼らの協力を得るという外交努力も欠かさなかったのです。

望みを絶たれた頼純は入国を叶えることができませんでしたが、次の一手を講じます。

彼は朝倉軍と共に越前に入ると、朝倉氏のコネクションを通じて室町幕府に働きかけ、外交によって頼芸との講和を結ぼうとしました。

結果、天文15年(1547年)にその努力が実を結び、六角氏や朝倉氏の仲介もあって両者の間に正式な講和が成立しました。

内容はハッキリ不明ながら、以下の三項目が同意されたもようです。

三項目とは次の通り。

①頼純の美濃入国

②頼芸の守護退任と頼純の次期守護内定

③道三娘の嫁入り

③の道三娘とは、後に織田信長の正妻となる帰蝶濃姫)ではないか?とする指摘もあります。

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いずれにせよ、こうして頼純は、本来父が手にするはずだった守護の座をようやく手中に収めるかに思われました。

 

講和直後に不慮の死を遂げる

いよいよ土岐頼純の守護就任――そう思われた矢先、天文16年(1547年)のことでした。

頼純が突如、不慮の死を遂げます。

ハッキリとした死因は不明ですが、享年24というのは、背後で何か恐ろしい事態があったと考えるのは自然なことでしょう。

頼純は、後に国主になる斎藤道三と敵対していたことから、

「道三に暗殺されたのだ!」

と考えるのが自然の流れかもしれません。

実際、文献によっては「暗殺」だったと明確に定義しているものもあります。

確かに、道三はこの時点で美濃国乗っ取りの構想がゼロではなかったでしょうから、下剋上の障害になりそうな頼純を消す理由は十分に存在します。

彼の性格を考えても、仮にそれが必要なことであればためらわずに実行するだけの決断力もあったでしょう。

大河ドラマ『麒麟がくる』でもそのように描かれていましたが、史実における「道三による暗殺説」は状況証拠に基づく推論でしかなく、本当のところはわかりません。

道三は朝倉氏や六角氏の仲介を経て講和に臨んでおり、結果として娘を嫁入りさせています。

講和をアッサリと反故にしてしまえば彼らの顔に泥を塗ることにもなるでしょうし、対立していた織田信秀がふたたび攻め込んでくることは目に見えています。

そうした点を考慮に入れても「価値のある暗殺」と感じたのかもしれません。まぁ、あくまで推測ですが……。

最後に【頼武・頼純親子の同一人物説】を検証しておきましょう。

 

頼武・頼純親子は同一人物なのか?

彼らを同一人物とみなす根拠はいくつかあります。

『土岐家譜』という史料では頼純の享年が49になっており、これは頼武の推定できるおおよその享年とほぼ一致するのです。

また、記事内でも触れたように「頼武が死んだという記録」は残っておらず、さらに当時の文書において、頼武・頼純はどちらも「土岐次郎」という名前で表現されています。

確かに、頼武と頼純の生涯はうまく接続することができるので、同一人物であったとしても不思議はないでしょう。

実際、講談社が提供している『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』においては、頼純の項に頼武のものと思われる事績が書かれています。

しかし、近年の斎藤氏関係の書籍などを見てみると、どうやら頼武と頼純は別人であるという認識のもとで研究が進められているようです。

根拠としては『実隆公記』という史料で

「大永四年(1524年)三条西実隆(日記の著者)が土岐の男子誕生を祝って太刀を進呈した」

という記載が確認でき、これが頼純を指すものと推定されているからです。

したがって、やはり「頼武と頼純は親子であり、同時に別人である」と考えるべきでしょう。

別人だとしたら大永4年に頼純が生まれ、翌年に父が死ぬとは、不謹慎ですがなんと紛らわしいこと……。

実に歴史家泣かせの親子なのでした。

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文:とーじん

【参考文献】
『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』
歴史群像編集部『戦国時代人物事典(学習研究社)』(→amazon
横山住雄『斎藤道三と義龍・龍興(戎光祥出版)』(→amazon
木下聡『論集 戦国大名と国衆16 美濃斎藤氏(岩田書院)』(→amazon

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