上田城西櫓

真田家

天正壬午の乱で昌幸の表裏比興が炸裂! 大国を翻弄した手腕とは【真田合戦譚】

真田の城と言えば?

真っ先に上田城を思い浮かべる方が多いと思われます。

徳川軍の猛攻を二度に渡って跳ね返した【第一次上田合戦(1585年)】と【第二次上田合戦(1600年)】。

いずれも寡兵が大軍を破るという痛快劇で、さながらマンガのようでもあり、真田ファンに支持される要因の一つでありましょう。

しかし!
上田城を念頭に置いて私が注目したいのは【天正壬午の乱】であります。

当時の真田家当主だった真田昌幸が、上杉、北条、徳川相手にコロコロと立場を変え【表裏比興の者】と称されたことでも知られる大きな戦乱でありますが、一つ間違えれば真田家全体が滅ぼされかねない状況で、昌幸は非常にクレバーかつアグレッシブな戦略でついには生き残ったのです。

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実は、この戦乱の最中に上田城も作られており、後に、真田信之が大名として生き残れたのも、天正壬午の乱を生き抜いたからにほかなりません。

3つの大国に囲まれた真田は、いかにして家名を守ったのか?

上田城の特性を把握しながら、天正壬午の乱を振り返ってみましょう。

【TOP画像】上田市デジタルアーカイブポータルサイトより引用

 

上田城 築城当時の様子は地形から読み取れる

実は、現在の上田城は真田昌幸の手によるものではありません。

漫画『センゴク』でもお馴染み仙石秀久の息子・忠政の統治時代に大改築されてしまったのです。
どのような城だったのか、という当時の記録も少なく、往年の姿はほとんど分かっていません。

しかし、ご安心ください。

天正壬午の乱の最中に真田昌幸が築城し、その後、二度も徳川方を退けた史実は間違いなくこの地に存在します。
たとえ当時の縄張りは失われていても、現代でも変わらない上田の地形が色々なことを教えてくれます。

戦国の城は、自然の地形を活かして作られているからこそ、縄張りが失われても推測できる事実が多々あり、それを探っていくのも城マニアの喜び。

早速、本題へと参りますと、上田城は千曲川沿いの崖(尼が淵)と、河岸段丘の地形を取り込んで造られた崖城です。

河岸段丘とは、タモリ倶楽部でときどき登場しますね。

河岸段丘の典型例としてよく注目される群馬県沼田市の河岸段丘・赤みを帯びている部分ほど高度が高くなる/Wikipediaより引用

平地面と崖のような急斜面が交互に連なった土地のことであり、上田城でも当然その特長を利用。

ただし、この城が真田昌幸によるエポックメーキングな城だったかというと、そうでもありません。

昌幸が参考にできたであろう多数の前例があり、昌幸本人が確実に訪れたことのある城だけに絞っても、3つの城を挙げることができます。

1つ目は武田信玄の腹心である山本勘助によって築城されたという「海津城」。
現在の「松代城」です。

海津城photo by お城野郎!

海津城は武田信玄の時代、川中島を実効支配するための城として、千曲川を挟んで川中島の対岸の地に築かれました。
千曲川の大河を天然の水堀として築城された平城です。

信濃の北部ですので完全に内陸地ではありますが、海の船着き場や渡し場のように見えたので「海津」の名が付いたと云われています。

「海も見たことないくせに!」というより、海を見たことがないからこそのネーミングだったのでしょう。

現在は松代城にその名残りを残しつつ、千曲川の流れは上田市同様に大きく変わりましたので、残念ながら当時の威容は拝めません。
「甲陽軍鑑」には激戦だった第4回の川中島の戦いに、真田昌幸が15歳で初陣していたとの記述がありながら、史実的な詳細は不明です。

ただし、その頃の昌幸が武田信玄の近習として仕えていたことは確か。

となれば本陣にお供していても不自然ではありませんし、海津城築城時の詳細を信玄と勘助の会話から聞き知っていたことは間違いないでしょう。

 

謙信が越後以外で初めて直轄化した「沼田城」

2つ目は西上野(現在の群馬県)の「沼田城」です。

この城は蓮根川と片品川、そして坂東太郎の異名を持つ暴れ川・利根川によって三方を削られた台地の河岸段丘を利用した崖城でした。

沼田城は、関東管領に就任した上杉謙信が、越後から関東に入る拠点として、謙信が初めて越後以外で直轄化した城でした。

越後と北関東、そして北信濃を結ぶ要衝の地にあり、領国を拡大しなかったことで有名な謙信でさえも押さえてしまいたくなるほど、沼田城が戦略的にも軍事的にも重要な城だということが分かります。

お城野郎ワンダーキャッスルジャパン20160320-2

沼田は非常に広大な台地ですので、天然の要害であったばかりではなく、大軍の集合地点として理想的な場所でした。

また、謙信は、この沼田城を拠点として、浅間山の北周りで侵攻できる軍用道路も整備しました。これによって、何かと行軍の障害となる利根川を渡らずに、下野国(現在の栃木県)の佐野あたりまで進軍することを可能にしたのです。

守ってよし、攻めてよし――沼田城は、まるで航空母艦のような城でした。

しかし、それだけ大事な城ですから、当然、争いも起きます。
沼田城は、謙信没後に起こった上杉家の内紛【御館の乱】のドサクサに紛れて、北条家に奪取されます。

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関東を治める北条家にとっても沼田の地が諸勢力の関東への侵入を阻むための最重要拠点だったことが分かりますね。

沼田城が北条家のものになった後、今度は武田勝頼と上杉景勝が手を組み、武田家臣の真田昌幸が沼田城を攻略しました。

川の流れや河岸段丘の巨体な崖を利用した城は非常に攻めにくい――。
昌幸も、このときはそう強く感じたに違いありません。

彼は無理攻めせず、父の真田幸綱真田幸隆)が堅城・砥石城を調略だけで奪ったときと同じように、調略で要害堅固の沼田城を奪いました。

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さすがの手腕です。
表裏比興なだけではありません。

というか表裏比興な内面を自覚しているからこそ、人の心の動きに敏感だったのかも……。

 

勝頼の拠り所になるハズだった新府城は昌幸が縄張り

3つ目は真田昌幸自身が縄張りしたと伝わる甲斐の「新府城」です。

新府城は、武田勝頼が甲府の躑躅ヶ崎館から居城を移した武田家最後の居城です。

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この新府城は、釜無川と塩川の侵食で出来た「七里岩」と呼ばれる巨大な屏風岩の上に築かれた城。
甲州流築城術を組み合わせて、さらなる要害化に成功します。

昌幸が築城に携わり、わずかな期間ではありますが滞在していたことは間違いありません。

このように上田城築城以前にも川沿いの城は数多く存在しています。

真田昌幸自身も海津城は守備側として、沼田城は攻城側として、そして新府城は築城に関わりましたので、これらの前例をすべて盛り込むようにして上田城を築城したことは十分に考えられます。

上田城が真田昌幸の独創的な発想によるものでなくとも、先例を研究し、自分のものにして実践に応用する能力こそ昌幸の真骨頂ではないでしょうか。

 

川近の城が押さえるべきポイントはこれだ!

では何故、真田の上田城が、この地に築城されなければならなかったのか?

河岸段丘があって土地や飲み水が確保さえて来れれば、城なんてどこでもいい……わけありませんね。

上田の地には東山道が東西に通っていました。

上野国から山を越えて上田に至り、松本を通過して、さらに山を越えて美濃、近江に出る道です。現代で言えば、群馬県から長野、岐阜を通過して滋賀(そして京都)へ至るルートですね。

また南北には善光寺方面へ向かう善光寺街道が通っていました。
江戸時代に中山道が整備され、上田よりも南を通過するようにはなりましたが、松本から上田に至る道は「保福寺街道」として、江戸時代の松本藩主が参勤交代の道として活用しております。

何が言いたいか?

というと、上田城周辺は古代より街道の交差地点として、人の往来が盛んだったということです。
国分寺も置かれるほどでした。

また、上田には千曲川の浅瀬を比較的安全に渡れる「渡し」もあったと云われています。

街道と街道が交わるクロスロードと「渡し」を支配することは、その地域の物流から人の流れ、情報までコントロールできますので、為政者なら必ずその地に「要害を構えて侵されない」城郭化を施します。

これぞ「築城のお約束」です。

ですから上田城の近辺にも、きっと「渡し」があるに違いない――そう目を凝らして地図上を探したところ、やはりありました。

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現在の上田市には千曲川の両岸を結ぶ「古舟橋」という橋が架けられています。

字面でピンときますよね。橋なのに古舟……そうです、ここに千曲川の「渡し」がありました。

昔は流れの激しい千曲川に橋を架ける技術はなく、軍事的にも敵の進軍を容易にする恒久的な橋を架けることはありません。往来者は僅かな浅瀬を舟で渡河していたのです。
この「渡し」が、ちょうど上田城の外郭の直下にありました。

真田昌幸が上方の情報をいち早くキャッチしてコントロールできたのは、街道が交わる上田の地を支配下に置いていたからであり、街道や渡しを物理的にコントロールできる地に築城することでさらに統制を強化することができました。

ポイントは3つです。

【上田城3つのポイント】

・河岸段丘を利用

・街道

・渡河ポイント

真田上田城は河岸段丘を天然の要害として城に取り込みつつ、街道と渡河ポイントを押さえた、川沿いの城の定石通りだったことは間違いなさそうです。

では次に、真田上田城の縄張りを、築城当時の情勢から探ってみたいと思います。

ここからが【天正壬午の乱】の本編とも言えます。
大変おまたせしました。

 

北は上杉、東は北条、そして南から徳川

1582年、織田家による甲州征伐で武田勝頼が自害。
武田家が滅亡すると、真田昌幸は織田信長の配下になります。

そしてその直後に起きた【本能寺の変】で、それまでの戦略はすべてが無に帰してしまいました。

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昌幸はここから周辺大国への従属と離反を繰り返します。

北に上杉景勝、東に北条氏政北条氏直父子、南には新たに侵入してきた徳川家康
真田家は、数カ国を領する大国たちに囲まれてしまったのです。

大国に挟まれた小領主が生き残るには、隣接する大国のどれにも属しつつ、どれにも属さないという、一見、矛盾した立ち場で「緩衝地帯」として見なされることが重要です。

ネックとなるのは、上杉、北条、徳川いずれの国も、大国であるがゆえ国境線が広範囲に渡っていることでした。

以下の地図をご覧ください。

赤の真田が、上杉(紫)、北条(青)、徳川(緑)に囲まれているのが一目瞭然でしょう。

マップに刺されたポイントはいずれも城です。

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彼等大国の係争地はここだけではありません。

上杉景勝は、織田信長が死んだとはいえ越中を奪った柴田勝家佐々成政と睨み合いを続けており、徳川家康と北条父子は駿河で国境を接しつつ、織田軍団が逃げて空白地となった甲斐や信濃を巡って争っている最中です。

ここに真田の上田が係争地に加わると、大国の戦線がさらに拡大して、お互い最悪な多方面作戦を強いられてしまいます。

兵力は集中させてこそ大国規模のメリットが出てきます。
上田に兵を割く余裕があるくらいなら別の方面に回したいのです。

もちろん真田家を支配下に置けば、東山道の交通を支配し、他国に対して優位に立つことができるのですが、同時に大国同士で直に隣接&衝突し、そこから消耗戦へ突入してしまうリスクも発生します。

そのような状況を真田昌幸は理解して利用します。

天正壬午の乱とは、まさにそうした状況を踏まえての争いなのです。

 

大国同士の衝突は回避したい思惑

昌幸は、大国同士がリスクを避けるため【川中島の戦いのような正面衝突はない』と仮定したでしょう。

そこで隣接する大国すべてと誼みを通じ、
「真田を完全支配して得られるメリットよりは少ないが、大国同士の衝突は避けられるというメリット」
を作り出すことに成功しました。

当時、上田で砥石城を本拠にしていた昌幸は、まず上杉に降りました。織田軍団が美濃へ逃走した後、最初に川中島の海津城まで南下してきた上杉家に従属を誓い、上田の領有を認めてもらったのです。

ここまでの流れは、さほど大変なことではありません。
もともと北信濃(川中島四郡)は越後との関係が強く、武田信玄に追放された北信濃国人衆も多数、上杉家で保護されていました。

また上杉謙信の時代には、北信濃を越後との緩衝地帯として保持するため、完全領土化を目指す武田信玄と川中島で争っていました。

織田家が消滅して、空白地帯になった北信濃に上杉家が軍を動かすことは越後の安全保障上、同然の成り行きで、昌幸も上杉家の従属下にいることで上田の領土が保障されたのです。

しかし、この直後に北条氏政、氏直父子が軍を動かしてきたことから、一気に緊張感が高まっていきます。というのも……。
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