真田信之/wikipediaより引用

真田家

真田信之(信幸)父が昌幸、弟が幸村という真田継承者の苦悩~93年の生涯

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真田家の天下分け目

豊臣政権は、秀吉の死後に崩壊を迎えます。

こうした中、真田家は劇的な運命を迎えた一族として知られています。

慶長5年(1600年)、会津の上杉景勝討伐を目指していた徳川家康は、石田三成の挙兵を知り、引き返すことにしました。

このとき、三成は各大名に西軍へ着くよう訴えかけていたのです。

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真田昌幸もその一人。

昌幸が宿所に我が子二人を呼び寄せ、対応を協議する名場面――これを「犬伏の別れ」と呼びます。大河ドラマ『真田丸』では第35話でしたね。

この場所、実は宿が「犬伏」として有名でしたが、実際は「天明てんみょう」であったと最新の研究では目されております。

だいたい3キロほどの差ですね。

いずれにせよ、栃木県佐野市であることは確かです。

昌幸と信繁が西軍についた動機は、いろいろな憶測がされてはおります。

江戸期以来、東西に分けて家の存続をはかることが独特だと考えられたものです。

たいした智謀だとされてはおりますが、この決戦で東西分裂したのは真田家だけではありません。

しかし、婚礼関係や昌幸と徳川との関係性を分析すれば、いきなり思いついたことではないとご理解いただけるでしょう。

昌幸と信幸は父子とはいえ、領地経営でも別です。

姻族関係でも、信幸は徳川、信繁は豊臣に分かれているのです。この分裂は、極めて自然なことではあるのです。

そうはいっても、父子、兄弟の分かれです。

それはドラマチックであると、後世のものがフィクションで想像する、ふくらませるのは自由ですよね。

もうひとつ、この天下分け目において、信幸がらみのエピソードがあります。

それは沼田城にやってきた舅・昌幸を、小松殿が追い払ったというものです。

これも複数の説があります。

◆他の大名妻子のように大阪におり、かつ大谷吉継の庇護下にあった。沼田城には不在である

◆これに先んじ、信幸が女中改として、性質を含めた女性たちを自領に戻していた。撃退は可能である

複数の説があるのであれば、フィクションではどちらを採用しても自由です。

『真田丸』におけるこのときの小松殿のシーンは、なんとも爽快感がありました。

いずれにせよ信幸には苦渋の決断。

彼は徳川秀忠につき従いました。その先の真田領で待っていたのは、父と弟であります。

 

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徳川秀忠
vs
真田昌幸&信繁

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かつては、関ヶ原で数少ない、西軍が強い爽快感があるものとされてきておりました。

このせいで、最大の兵力を持つ徳川秀忠が屈辱的な足止めをくらったとされていたのです。

しかし近年、それはどうなのか?と、疑念が呈されています。

・秀忠軍は足止めをされたとはいえ、誇張されるほどの損害はない

・秀忠が間に合わなかったというよりも【関ヶ原の戦い】が一日で終わったことのほうが予想外の事態だった

・秀忠遅参の一因であることは確かではあるが、他にも要因はある

・前提として、攻城戦は時間がかかるものである

・秀忠は家康の命令を受けて撤退しており、これを撃破とは言い切れない

こうした史実をふまえ、ちょっと冷静に評価すべきというあたりに落ち着いていたのが『真田丸』でした。

あのドラマの描き方は、巧みな構成と脚本によって十分楽しめたものの、そこまで秀忠を叩きのめしたわけでもありません。

史実からはみ出しても、もっと派手にしてもよかったのではないかという意見もありました。

では、このときの信幸は?

昌幸が砥石城に入れていた軍勢を退いたため、ここに入りました。

そのため、彼自身の軍勢は、上田城攻めには参加していません。真田一族同士の対戦は回避されたのです。

その後はご存知のとおり「関ヶ原の戦い」がわずか一日にして決着を迎えたのでした。

関ケ原合戦図屏風/wikipediaより引用

 

徳川幕府体制での信幸

このあと徳川方の勝利に従って、信幸の人生は転機を迎えます。

父と弟の助命嘆願を信幸が行なったという逸話は、魅力があるものです。

ただし、この時点で家康側が昌幸・信繁父子の首まで欲しがっていたか、わかりません。

明らかなことは、信幸が何かを嘆願していたことです。

◆改易しないこと

◆上田領および上田城の確保

状況的にはこのあたりとされています。

その結果、次のような着地点を迎えました。

◆上田領の確保
→決戦の地となった上田領の確保に成功。その復興を担う

◆高野山追放となった父と弟を見送る
→生活必需品を送っていたとみられる

高野山に追放された昌幸と信繁の境遇には、同情を感じる方も多いことでしょう。

彼らだけではなく、その処置に追われた信幸の苦労も偲ばれるというものです。

高野山での昌幸・信繁父子の暮らしは、辛いだけではありませんでした。

信幸や小松殿の気遣いもあり、趣味や酒を楽しむことはできたようです。信繁は、余った時間のおかげで連歌を楽しむこともできたとか。

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これも、優しい兄あってのことでした。

そうはいっても、多くの家臣がついていったこともあり、生活費が間に合っていたというわけでもありません。

昌幸と信繁は、仕送り増額を信幸に頼み込んでおりました。それが叶わない時は、借金もしていたのです。

この生活苦が、大坂の陣における信繁の行動の一因となったのでしょう。

徳川新政権の動きに関しては、どうにも信幸は過小評価か過大評価がされがちかもしれません。

くどいようですが、彼が本多忠勝の女婿であり、早い段階で徳川に近かったことをお考えください。

そんな信之に真田領を引き続き統治させることは、寛大である以上に効率的なのです。

実際、信幸には人脈がありました。

・本多忠朝(本多忠勝二男)
井伊直政
・城昌茂

中でも、義父・本多忠勝との交流は篤いものがありました。

忠勝は愛娘である小松殿を気遣っていることが、残された書状からもわかります。

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忠勝は草津での湯治を好んでおりました。

草津湯の管理は信幸の管轄ですので、ここでも関係がうまれるわけです。

こうした交流から、人当たりが良く、誠実な信幸の姿が見えてきます。

乱世を生き抜くのであれば、昌幸の性質こそがふさわしいかもしれません。

一方で太平の時代となれば、信之こそが適していたのかもしれない。そんな父子の違いを想像させます。
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