現在の耳川/wikipediaより引用

大友家 島津家

最強島津軍!耳川の戦いで釣り野伏せ炸裂 大友軍をフルボッコ

投稿日:

どの地方にも、節目になった戦いがあります。

東海であれば桶狭間の戦い
中国は厳島の戦い
東北では人取橋の戦いですかね。
関東は、秀吉の小田原征伐まで群雄割拠でしたが、一つ挙げるとすれば河越城の戦いあたりでしょうか。

そこで今回は九州の命運を分けた大戦に注目。

天正六年(1578年)11月11~12日、耳川の戦いがありました。

場所は現在の宮崎県中央部にあたり、当時、九州で大勢力だった大友と島津がぶつかったのです。

凄まじい激戦は、薩摩隼人・島津勢の勝利で終わりますが、この合戦は単純に結果だけでなく勝利に至るまでの経過もかなり見どころがあります。
さっそく追ってみましょう。

 

中央では謙信が亡くなり織田家の優位が確立

まずは当時の情勢を確認しておきますと、1578年は上杉謙信が亡くなった年です。

上杉家は跡取りを決めてなかったことから上杉景勝と上杉景虎によるお家騒動の【御館の乱】が勃発。
北条と上杉の間に立たされた武田勝頼が、外交判断ミスとも言える対応で北条を怒らせてしまい、滅亡へのキッカケを歩んでしまった年とも言えます。

一方で謙信の死は、北陸方面にも劇的な変化をもたらしました。

前年の1577年、織田家の柴田勝家が【手取川の戦い】で謙信にフルボッコにされ、北陸戦線で危機を迎えていたのですが、その矢先に謙信が亡くなり、プレッシャーが一気に激減。

手取川の戦いとは? 秀吉が戦線離れて、謙信が勝家をフルボッコ!

天 ...

続きを見る

要は、織田家が圧倒的有利な状況に躍り出たのです。

では【耳川の戦い】があった九州はどうだったのか?

一言で言えば三国志状態です。

薩摩の(鬼)島津、長崎近辺で成り上がった竜造寺、そして九州北部の名門・大友の三つ巴で覇権を競っていたのですね。

もちろん他の大名もおりましたが、いずれも上記三家のどこかに属したりするなどして存続を図る様相で、耳川の戦いのキッカケも、宮崎県の伊東氏が大友家へ助けを求めたことから始まりました。

 

伊東家に頼られた宗麟 キリスト教の楽園を夢見る

当時の伊東家は、南からやってきた島津家に領地の半分を奪われてしまった状況。
そこで北にある大友家へ助けを求めます。

その条件が
「取り返していただければ、アナタに領地を半分差し上げます!」
というもので、家臣になるも同然の内容でした。

竜造寺家に突っつかれて、あちこちの領地を失っていた大友家の当主・大友宗麟は、好機とばかりにこれを受け入れました。

ここだけだと一見「宗麟いい奴じゃん」なんて思えますが、彼には彼で黒い思惑があったのです。

当時、宗麟はキリスト教にどっぷり漬かっていて、
「キリスト教徒の楽園を作ろう!」
なんてお花畑計画を実行しようとしていました。

そこへわざわざ土地を提供してくれる人が出てきたのですから、これは話に乗らなきゃ損というわけです。

が、主君が「デウス万歳!」でも、家臣全員がキリスト教徒というわけではありません。
そのため、このアホな出兵に嫌々参加している武将もいました。

士気はイマイチですし、武将同士の仲もこじれる。
これが大友軍の命取りになってしまうのでした……。

何より相手は鬼の島津軍です。

島津義久
島津義弘
島津歳久
島津家久

このコワモテな島津四兄弟が絶好調の時期であり、万全の体制で臨んだってそう簡単には勝たせてくれない相手でした。

 

「国崩し」と呼ばれた最新兵器フランキ砲で勝負じゃ!

大友軍はまず取られた高城たかじょうを奪い返すため、周りを取り囲みました。

といってもこの高城という城は三方を崖に囲まれたところで、唯一空いていた西側は掘が設けられているという鉄壁ぶり。
遠巻きに布陣するしか方法がありません。

敵が打って出てくるのを待って攻めようというわけです。

しかし、敵もノコノコ出てくるほど馬鹿なワケはありません。

兵糧や武器など、篭城に必要な物資・準備が整っていたとすれば、攻め手側の苦戦は必至。
そこで大友軍が引っ張り出してきたのが、当時最新の兵器【国崩し】でした。

キリスト教の宣教師が持ってきた【フランキ砲】というタイプの大砲です。

宗麟の居城臼杵城跡(臼杵公園)にあるフランキ砲「国崩し」のレプリカ/photo by Twilight2640 wikipediaより引用

発射音が異様にでかく、破壊力が凄まじかったことに感動した宗麟が
「こいつなら敵の国を丸ごとぶっ潰せるぜヒャッフー!!」
とハイテンションで命名したといわれています。

とはいえ家臣からは「使い方よくわからないし、高かったし、ウチの国も崩されなきゃいいけど……」なんて皮肉られていたそうで。

 

戦上手の家久が密かに入城していた

さぞかしノリノリだったであろう大友宗麟。
早速、国崩しを城めがけてぶっ放し、「篭城しても無駄だぜ!」ということを高城の城兵たちに知らしめようとします。

しかし、いかんせん設置場所に問題がありました。

国崩しは、高所から打ち込まなければ思うように威力を発揮できません。
平地に設置したところで高所にある高城には効果を出せず、扱いに不慣れな新兵器がそうそう上手く当たるわけはありませんでした。

家康が大坂冬の陣でも似たようなビビラセ戦法を使ってますので、宗麟も着眼点としては悪くなかったんですけどね。残念。

そうこうしている間に、城には島津の援軍がこっそり入っておりました。

問題は、その援軍の将です。
兄弟の中でも戦上手と知られる四男・島津家久が……。

家久はすぐ近くの佐土原城さどわらじょうに入っていたので、すぐに動くことができたのです。
島津ファン、胸アツな展開ですよね。

絵・小久ヒロ

そこへさらに長兄・義久が3万もの兵を率いてやってきたのですから、篭城側の士気も自ずと上がります。

とはいえ兵数はほぼ互角。
しばらく両軍にらみ合いが続きました。

戦局を打ち破ったのは雨でした。

大友軍は「こんな天気の悪い日に、戦に出てくることもなかろ」と油断しきり。
島津軍はその裏をかいて着々と準備を進め、二男・義弘が本陣を離れると、大友軍の合間を縫うようにして兵を伏せていたのです。

そして雨も上がった11月11日。
島津軍は大友軍の布陣を絶つように奇襲を仕掛け、さらに篭城していた兵とも連携し攻撃をしかけると、圧勝を収めたのでした。

このとき既に大友軍の戦死者は数百を超えていましたが、戦いはまだまだ終わりません。

天正六年(1578年)11月12日、この合戦の名前になった耳川で大友家が島津家の追い討ちを食らうのです。
何がスゴイかって、耳川で大友軍はロクに戦えていないことでしょう。

 

大友家の勇将・田北鎮周が島津への突撃を決意

元々士気が下がりつつあるところに負けてしまった大友軍は、すっかりまとまりを欠いていました。

「そもそも殿が南蛮の宗教なんかにハマるからこんなことに……」
「お前だって止めなかったじゃん」
「オレは反対してた!」
「どうでもいいわい。今は目の前の敵が先だろ!」
「何だとこの野郎!」
「ハイハイハイ!こうなったら突撃しかないと思います!!」
「勝てるわけねーだろアホか!」
「とにかく、殿にご指示をいただくことにしようそうしよう」
(この隙に裏切ったれ)

超訳するとこんな感じで軍議(作戦会議)すらまともにできない始末。
よく戦を続けようと思ったレベルで、この有様に一番腹を立てていたのは、田北鎮周たきたしげかねという武将でした。

彼は大友家の親戚にあたる家柄で、武功もあり内外に勇将として知られていた人です。

鎮周は一人「これじゃ、どっちにしろ無事には帰れない。ならせめて島津に一矢報いてやる!!」とアツい覚悟を決め、部下達の士気を上げるべく酒宴を開きました。

もちろん、ただ飲んだくれるためではなく今生の別れの意味をこめた宴です。
一説には、田北隊だけでなく他の隊でも別れの盃を交わしていたとか。

こうして腹を据えた鎮周は、翌朝12日の早朝、こっそり進軍を開始します。対峙している島津軍のうちで一番近い隊を狙ったのです。

奇襲には成功しました。

が、準備が整っていなかったのは味方も同じ。
別の隊も慌てて田北隊を追い、進軍を開始します。

こうなると、どっちもどっちでグダグダになりそうな場面ですが、そこは「鬼」と称される島津軍。

高台にいた総大将・義久がこの動きを察知し、
「どうせ崩れているのだから、前線部隊には囮になってもらおう」
とほくそ笑みました。

勢いに乗った部隊ほど、釣りやすいものはないですからね。

義久は【釣り野伏せ】の準備を命じつつ、自らも出陣しました。

 

島津の御家芸「釣り野伏せ」

釣り野伏せとは、島津軍のお家芸と言ってもいい戦法の一つです。

3ステップで説明しますと……。

①まずAという部隊がわざと敵に押されるふりをして後退する

②その間にB・C部隊が敵の側面に回りこんで隠れる

③A隊がB・C隊の目の前まで敵を引き込んだところで、三隊連携でフルボッコ!

演技が大変だからなのか。
A隊には「君たち囮だから頑張ってね♪」なんてことは事前に知らされないことも多かったそうで。

耳川の戦いもおそらくそうだったのでしょう。
いずれにせよ……。
※続きは次ページへ

次のページへ >



-大友家, 島津家
-

Copyright© BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン) , 2019 All Rights Reserved.