絵・富永商太

信長公記

ワシは勝幡城生まれ~戦国初心者にも超わかる『信長公記』第1話

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戦国時代で人気Nol.1の英雄・織田信長――。

本能寺の変】から実に400年以上の時が過ぎているにもかかわらず、今なお彼の功績が世に広く知られているのはナゼなのか?

それは『信長公記(しんちょうこうき)』のお陰と言っても過言ではありません。

家臣である太田牛一が、信長を称えるために書いた書物。

・首巻
・本編十五巻
の計16巻からなる一代記で、牛一が直接の家臣であることから信頼性が高く、信長の生涯を知る上で欠かせない書物となっています。

つまり本書を読めば、かなり細かい【信長ストーリー】を掴むことができる!
ということで始まったのが本連載『戦国初心者にも超わかる信長公記』。

彼は一体どんな人物だったのか?

本連載を通じて信長さんを感じていただければ幸いです。

戦国初心者の皆様にもわかりやすいよう、歴史用語や当時の状況など、色んなことを補足説明しながら進めていきます!

本日は、信長の生まれや、生誕当時の織田家の様子から見ていきましょう。

※『信長公記』は確かに信頼性の高い史料とされておりますが、かといって全て正しいというワケではなく、今なお研究途中であることを申し上げておきます

 

守護代の一族だった織田家

16世紀前半――。

尾張国の上郡は、守護代である織田信安(のぶやす)が支配していました。
本拠は岩倉城(現・愛知県岩倉市下本町)

そして下郡は、同じく守護代である織田達勝(たつかつ)の支配下にあり、こちらの本拠は清州城(現・愛知県清須市一場)でした。

守護代という点では両者対等なれど、達勝の清州城には本来の守護である斯波義統(しば よしむね)が滞在しており、実権を握っているのはこちらといえます。

斯波氏は室町幕府将軍家・足利氏の一門(親戚)の家で、平たくいえばエライ人の一族です。

それが応仁の乱以降は、他の名家と同様に没落。
本来の領地だった越前を朝倉氏に、遠江を今川氏にほぼ奪われ、この時期の尾張では実質織田氏のお神輿状態でした。

代々「兵衛府(ひょうえふ・皇族の警護を担当する役所)」の官職に任じられた人が多かったので、その唐名(中国歴代王朝における近い役所の呼び名)から斯波氏を「武衛家(ぶえいけ)」とも呼びます。

歴史小説などでは斯波氏の当主のことを「武衛様」と呼ぶケースもありますね。

ややこしい話ですが、現代でも総理大臣のことを名前で呼ばず「総理」と呼ぶことが多いような感じです。

では、こうした状況の最中、信長の生まれた当時の織田家はどんな様子だったのか。

 

父・信秀と共にいた四人の兄弟(叔父)たち

信長の父・織田信秀は、織田達勝の奉行(幹部)の一人でした。

信秀は戦上手な武闘派イメージで後世に知られますが、当時は、ほぼ同じ立場の武将が別に2人【織田因幡守・織田藤左衛門】おります。
決して信長を輩出した織田家だけが突出していたワケでもなかったんですね。

織田信秀(絵・富永商太

そんな中で信秀は、達勝の信任を得て、四人の弟や家臣団と共に勝幡城(しょばたじょう/現・愛知県稲沢市平和町)を拠点としていました。

信秀四人の弟たちとは、上から順に
・織田信康
・織田信光
・織田信実
・織田信次
と言い、信長本人にとって叔父にあたります。

今回はこの四人も簡単に紹介しておきましょう。

信康は兄・信秀に忠実でしたが、彼の息子・織田信清は後に信長と対立しています。犬山城(現・愛知県犬山市)を拠点としていたため「犬山衆」と呼ばれることもありました。

信光は信秀にも信長にも忠実ながら、後に妻の間男に殺されるというなんとも哀れな最期を迎えます。

信実については記録が乏しく、生没年も不詳です。少なくとも信秀・信長と敵対した記録はありません。

信次は後年、とある事件がきっかけで信長に誤解され、一時放浪することになります。
後に和解し、守山城(現・名古屋市守山区)の主に返り咲きました。

浅井長政の死後、お市の方と浅井三姉妹を引き取ったのも彼であることから、その頃には信頼されていたと思われます。

彼らの名は後にまた出てくるので、とりあえず

「信長には、そんな感じの名前の叔父さんたちがいた」

くらいの感じで覚えておくといいかもしれません。

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三男なれども嫡男の生まれだった信長

こうした状況下で、信長は1534年に勝幡城で生誕。
母は信秀正室・土田御前でした。

信秀には既に織田信広・織田信時という二人の息子、つまり信長の兄がいたのですが、彼らの母は不明=少なくとも正室生まれではありません。
ということは「信長は生まれながらに嫡子」となるのは決まっていたでしょう。

実際に信秀は、その数年後にまだ幼い嫡子の居城として那古野城(現・名古屋市)を譲りました。

信秀がいつ、那古屋城を手に入れたのかが確定していないため、時期については不明瞭です。

長い間、信長の生誕地が
・那古屋城説
・勝幡城説
に分かれていたのも、そのあたりが理由ですね。

話が少しズレますが、ここでは”那古屋”城と”名古屋”城の違いも押さえてから、先へと進みましょう。

 

那古屋城~現在のナゴヤ城とは別物

那古屋城は、現在よく知られている名古屋城と同じ場所にありました。

名古屋城と本丸御殿跡

しかし、両城の実態はまるで異なります。

信長時代にあった那古屋城は、信長の死後に打ち捨てられてしまい、しばらく荒れ地になっておりました。

それからおよそ半世紀後、徳川家康
「ここは信長殿の歴史がある土地だし、交通の要所でもあるから城を作り直そう」
と着想。
息子・徳川義直を入らせるために作らせたのが、江戸時代から現在まで続く名古屋城です。

名古屋城の工事が始まる以前、その周辺の土地は鷹狩ができるほどの野原だったと言われています。現在の混み合った状況からは想像も付きませんが。

そして信長が那古屋城を父・信秀から譲られたとき、四人の家老がつけられました。

筆頭:林秀貞
次席:平手政秀
青山与三右衛門
内藤勝介

上記の4名です。

名古屋城の目の前の絶景ポイントには豊臣秀吉子飼いの武将・加藤清正の像が

 

父は古渡城へ

秀貞は佐渡守を名乗っていたため、「林佐渡」と表記されることもあります。
長きに渡って信長に信任され、筆頭家老として支えました。

政秀は「信長を諌めるために自害した」ことで有名な人ですので、名前を見た覚えのある方も多いのではないでしょうか。

最近は「自身の息子と信長の不仲を悲観しての自害だ」ともいわれていますね。
和歌や茶道に通じた風流人でもあり、牛一も信長公記の別の節でその点を褒めています。

他の二人については生没年が不明です。
ただそれは、
【信長や織田家に対して害をなさなかった】
という意味にもなり得ますから、家老としては充分だったのではないでしょうか。

信秀は息子に城を譲ると、新しく古渡城(ふるわたりじょう/現・名古屋市中区)を作って移り住んでいます。
この二つの城は現在の道路で5km程度ほどの距離しかありません。

かなり近いですよね。
当時の交通事情や有事の際を考えてのことでしょう。

というところで記念すべき『信長公記』の第一節はおしまいです。
「信」の字がゲシュタルト崩壊しそうなのはご勘弁くださいm(_ _)m

なお、織田信長の生涯をスッキリ解説したのが以下の記事になりますのでよろしければご確認ください。

長月 七紀・記

※信長の生涯を一気にお読みになりたい方は以下のリンク先をご覧ください。

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なお、信長公記をはじめから読みたい方は以下のリンク先へ。

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【参考】
国史大辞典
『現代語訳 信長公記 (新人物文庫)』(→amazon link
『信長研究の最前線 (歴史新書y 49)』(→amazon link
『織田信長合戦全録―桶狭間から本能寺まで (中公新書)』(→amazon link
『信長と消えた家臣たち』(→amazon link
『織田信長家臣人名辞典』(→amazon link
『戦国武将合戦事典』(→amazon link

 



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