真柄直隆

馬上で長い太刀を振り下ろそうとする真柄直隆(姉川合戦図屏風)/wikipediaより引用

信長公記 浅井・朝倉家

姉川で忠勝と真柄直隆が一騎打ち!? 自慢の“太郎太刀”は長さ2m超

越前・朝倉義景に攻めかかり、いよいよ喉元まで切り込む――というところで浅井長政の裏切りに遭った織田信長

命を賭けた撤退戦(金ヶ崎の退き口)で九死に一生を得て、本拠地・岐阜城へ戻ると、すぐに浅井討伐軍を立ち上げました。

一方、浅井側も黙ってはいません。

隣接する織田家に対し、手前で防御を固めるべく、

・長竹砦(たけくらべとりで)

・刈安砦(かりやすとりで)

を設置するのですが、これを織田家に調略で奪われ、いよいよ小谷城にプレッシャーがかけられます。

そこで両軍が衝突して起きた野戦が【姉川の戦い(1570年)】であり、このとき武名を上げながら戦死したのが朝倉軍の将・真柄直隆でした。

元亀元年(1570年)6月28日の出来事を振り返ってみましょう。

 


姉川の戦いとは?

姉川の戦いは、

【織田・徳川軍】

【浅井・朝倉軍】

が正面からぶつかりあった野戦です。

兵数は諸説あり、おおよそ

・織田23,000
・徳川6,000
vs
・浅井8,000
・朝倉10,000~15,000

という規模でした。

コトの発端は元亀元年(1570年)6月24日、横山城へ攻め込むため、織田・徳川軍が龍ヶ鼻に陣を取ったことです。

対する浅井・朝倉軍は、朝倉景健が8,000の兵を率いて、織田・徳川軍の背後を取ろうと試みます。

彼等は姉川の北側、大依山に布陣。

6月27~28日にかけて兵を進め、姉川の手前で二手に分かれました。

織田軍も動きます。

朝倉を相手にするかのように西側には徳川軍。

東には対浅井として織田軍が布陣。

そして6月28日の午前6時頃、浅井・朝倉軍の攻撃から戦いが始まったのでした。

 


1万の軍と敵対 さすがに怯みそうになる徳川軍は

むろん織田・徳川軍も全力で迎え撃ちます。

当初はかなりの混戦だったようで、互いに多くの死傷者が出ました。

この戦いで最も有名なのは、とある武将と刀に関する話でしょう。

『信長公記』には描かれておらず、軍記物で信憑性は劣りますが、【これぞ戦国武将!】という話ですので、付け加えさせていただきます。

前述のとおり朝倉軍は、西側に構えていた徳川の本陣へ攻め寄せました。

兵数は約1万。

いくら勇猛で知られる三河武士でも、この状況では怯んでも仕方のない状況でしょう。

そんな空気を察したのか。

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