絵・富永商太

信長公記

姉川の戦いで真柄直隆と忠勝が一騎打ち!~超わかる『信長公記』第72話

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越前・朝倉義景に攻めかかり、いよいよ喉元まで切り込む――。
というところで浅井長政の裏切りに遭った織田信長

命を賭けた撤退戦(金ヶ崎の退き口)で九死に一生を得て、本拠地・岐阜城へ戻ると、すぐに浅井討伐軍を立ち上げました。

浅井としても、隣接する織田家に対して防御を固めるべく、
長竹たけくらべ
・刈安砦
を設置するのですが、これをアッサリ織田家に調略で奪われ、いよいよ小谷城にプレッシャーがかけられます。

そこで両軍が衝突して起きた大戦が「姉川の戦い(1570年)」でした。

 

姉川の戦いとは?

姉川の戦いは、
【織田・徳川軍】

【浅井・朝倉軍】
が正面からぶつかりあった野戦です。

兵数は諸説ありまして、おおよそ
・織田23,000
・徳川6,000
vs
・浅井8,000
・朝倉10,000~15,000
という規模だったとご理解ください。

コトの発端は元亀元年(1570年)6月24日、横山城へ攻め込むため、織田・徳川軍が龍ヶ鼻に陣を取ったことでした。

対する敵は、朝倉景健が8,000の兵を率いて、織田・徳川軍の背後を取ろうと試みます。

浅井・朝倉連合軍は姉川の北側、大依山に布陣。
6月27~28日にかけて兵を進め、姉川の手前で二手に分かれました。

織田軍も動きます。

朝倉を相手にするかのように西側には徳川軍。
東には対浅井として織田軍が布陣。

そして6月28日の午前6時頃、浅井・朝倉軍の攻撃から戦いが始まったのでした。

 

1万の軍と敵対 さすがに怯みそうになる徳川軍は

むろん織田・徳川軍も全力で迎え撃ちます。

当初はかなりの混戦だったようで、互いに多くの死傷者が出ました。

この戦いで最も有名なのは、とある武将と刀に関する話でしょう。
信長公記』には描かれておりませんが、【これぞ戦国武将!】という話ですので、付け加えさせていただきます。

前述のとおり朝倉軍は、西側に構えていた徳川の本陣へ攻め寄せました。
兵数は約1万。

いくら勇猛で知られる三河武士でも、この状況では怯んでも仕方のない状況でしょう。

そんな空気を察したのか。
徳川四天王として知られる本多忠勝が、自ら単騎駆けを行って味方を鼓舞します。

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大軍を前にして慌て果てた徳川軍は、彼らの働きがあり、徐々に士気と平静さを取り戻します。

すかさず家康を守るため、文字通り必死に奮戦。
そこに朝倉軍の剛の者が襲いかかりました。

 

怪力無双の真柄直隆 愛刀「太郎太刀」と共に

剛の者――その名は真柄直隆まがらなおたか
越前の国人で、朝倉軍の客将のような形で参加していました。

日頃から怪力で知られており、姉川の戦いにおいても「太郎太刀」という大太刀を用いて奮戦していたようです。

これに対するは、徳川一、いや全国最強とも讃えられる本多忠勝
名槍「蜻蛉切」を愛用する、当代きっての剛の者です。

彼ら二人の間で、まるで軍記物語のような一騎打ちが行われたのです。

漫画かっ!
とツッコミたくなるような、戦国ファン垂涎のシチュエーションですよね。

激突した両者は、一歩も譲らない激しい戦いを演じていたところ、気がつけば浅井・朝倉の両軍は撤退を始めました。

敵の隊列が伸び切っている――そう気づいた家康が、徳川四天王の一人・榊原康政に側面から攻撃させ、ついに敵を退かせたのです。

 

真柄直隆 今度は徳川の匂坂さきさか三兄弟と死闘

周囲の様子から敗勢を悟った直隆は、忠勝との決着を諦め、自ら殿しんがりを買って出ました。

殿とは、撤退する軍の最後尾で支えること。
危険かつ手練でなければ難しいとされる戦いです。

その途中、直隆は、徳川家の匂坂さきさか三兄弟とも再度死闘を演じたといわれています。怪力ももちろんですが、スタミナがすごいですね。

とはいえ、やはり直隆も人間。

しばらくした後に疲れ果て、
「今はこれまで、我が首を手柄にせよ」
と自ら太郎太刀を投げ捨てると、匂坂三兄弟に首を差し出したといいます。

これまた潔いといいますか。
実に戦国武将らしい価値観ですね。

他に、徳川家臣の青木一重が直隆の息子とされる真柄隆基を、竹中重治(半兵衛)の弟・竹中重矩が遠藤直経を討ち取った――と信長公記には書かれています。

織田・徳川軍の挙げた首は、1100ほどあったとか。
味方の被害も大きかったため、楽勝ではありませんが、大勝といっていいでしょう。

 

浅井の重臣・磯野員昌を攻略だ

勢いに乗った織田・徳川軍は小谷城まで5.5kmほどのところまで追撃しました。

が、小谷城そのものは一朝一夕には落ちない堅城のため、追撃をいったん中止。
近隣の横山城(長浜市)を攻略して、城番に木下藤吉郎(豊臣秀吉)を入れています。

そして7月1日。
今度は佐和山城(彦根市)に籠もっていた浅井方の武将・磯野員昌いそのかずまさを攻めました。

ここも容易には落ちませんでした。
が、鹿垣ししがき(もとは獣に対する垣・囲いのこと)を設置するなどして包囲を続けた結果、翌元亀二年(1571年)2月に降伏させます。
こちらは丹羽長秀が城番を務めることになっていますので、包囲中の責任者も彼だったのでしょう。

磯野員昌は、姉川の戦いで、信長本陣めがけて「姉川十一段崩し」という猛攻をしたといわれる勇将です。
何か?というと、信長本陣の前に構えていた十三段の備えのうち十一段まで崩した――というものですね。

織田軍にとっては、首の皮一枚で繋がっているような状態に感じられたでしょう。

このときは美濃三人衆が信長救援に動き、さらには「徳川軍が織田軍側に進んできている」という知らせが入り、浅井軍も撤退しております。
前述、本多忠勝と真柄直隆の一騎打ちを止めさせた、タイミングですね。
徳川軍が側面攻撃に成功して、朝倉軍を後退させていたのです。

 

ルートを確保すると早速京都へ

しかし、この磯野員昌の「十一段崩し」は、江戸時代の書物が初出なので、やはり創作の可能性は否めません。

員昌自身の武勇を誇張するためか。
あるいは家康やその家臣団の優秀さを強調するためか。

いずれかの狙いが含まれていそうですが、全く根拠のないものから創作するのも難しいですし、員昌が勇猛であったことは事実と見ても良さそうです。

こうして、岐阜と京都を行き来するルートはほぼ万全になった織田軍。
7月6日に信長は、御馬廻衆だけを連れて上洛し、将軍・足利義昭に状況を報告しています。

その後、上方での政務を片付け、7月8日に岐阜へ帰還しました。
信長の処理速度はいつも半端ないですが、それについていく御馬廻衆もなかなかのフットワークですね。

大勝を収めたものの、浅井・朝倉両氏との戦いはまだまだ続きます。

それ以外の大敵も迫っておりました。

長月 七紀・記

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【参考】
国史大辞典
『現代語訳 信長公記 (新人物文庫)』(→amazon link
『信長研究の最前線 (歴史新書y 49)』(→amazon link
『織田信長合戦全録―桶狭間から本能寺まで (中公新書)』(→amazon link
『信長と消えた家臣たち』(→amazon link
『織田信長家臣人名辞典』(→amazon link
『戦国武将合戦事典』(→amazon link

 



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