信長公記

石山・今堅田の戦い 将軍義昭が強気になる理由~超わかる信長公記88話

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今回は、織田信長方と将軍・足利義昭方が初めて軍事衝突したときのお話です。

開始時点は元亀四年(1573年)2月20日。
信長に「将軍方の軍を阻め」と命じられた柴田勝家明智光秀丹羽長秀蜂屋頼隆らが、まず石山(大津市)へ出陣しました。

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24日には勢田を船で渡り、石山へ攻めかかっています。

ここは将軍方が砦を築いていたところ。
完成してしまえば、問題も戦闘も長期化してしまう恐れがありました。

ならば、砦ができるまえに叩くのが定石です。

作戦は功を奏し、26日には砦の守将・山岡景友が降参してきました。
山岡は「伊賀衆・甲賀衆」を陣に加えていた――とあります。

忍者等ではなく、土豪の類でしょう。
京への通り道である南近江も、完全には平定しきっていないんですね。

 

光秀は東から 丹羽と蜂屋は東南から

将軍方の一角を崩すことに成功した織田軍は、次に今堅田(大津市)へ向かいました。

そして29日の辰の時(午前8時ごろ)から、それぞれに別れて攻勢をかけます。

明智光秀は琵琶湖上の東から西へ。
丹羽長秀・蜂屋頼隆は東南から西北へ。

そして午の刻(正午ごろ)に光秀が敵陣に突入すると、多数の敵を切り捨て、これによって敵方の大半は鎮圧され、光秀は坂本城(大津市)へ帰りました。

他の三人も帰陣しているので、全員「この戦はここで終わり」と認識していたのでしょう。

この件について、京の人々は
「父母(かぞいろ)と 養ひ立てし 甲斐もなく いたくも花を 雨のうつ音」
という歌を詠み、落書にして揶揄したといいます。

少々わかりにくい歌ですが、大まかに訳すと

「信長は父母のように数々の奉仕をして将軍を養ったのに、その甲斐もなく将軍と対立することになった。
雨が将軍の住まいである花の御所を打ちつける音が響いている」

となります。
この「うつ」は「討つ」にも通じているでしょうね……。

 

地味な争いなれど長く尾を引く問題に

この節での結末は、当時ナンバーワンの実力者である信長と、権威ならば武家のトップである義昭のぶつかり合いとしては地味なものです。

が、問題は長く尾を引きます。

この間も武田信玄は西上中でしたので、義昭方としては砦が完成次第、信長方を挟み撃ちするつもりだったのかもしれません。
あるいは、浅井・朝倉氏の援軍を待っていたのでしょうか。

しかし実際には、義昭の期待通りにはなりませんでした。

武田信玄は4月12日に病死したといわれていますので、二ヶ月前のこの時点で体調が崩れていてもおかしくありません。
浅井・朝倉氏のほうが早く動けた可能性が高いものの、いずれも動きませんでした。

織田軍の機動力や信長の決断の早さを甘く見たのが、一番の敗因でしょうね。

義昭もこれまで信長の足跡を見ていたのですから、わかっていてよさそうなものなのですが。

なお、今回は明智光秀の記述が目立っておりました。
着実に出世街道を歩んでいる様子が浮かんできます。

明智の生涯については、よろしければ以下の記事を御参照ください。

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※信長の生涯を一気にお読みになりたい方は以下のリンク先をご覧ください。

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なお、信長公記をはじめから読みたい方は以下のリンク先へ。

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【参考】
国史大辞典
『現代語訳 信長公記 (新人物文庫)』(→amazon link
『信長研究の最前線 (歴史新書y 49)』(→amazon link
『織田信長合戦全録―桶狭間から本能寺まで (中公新書)』(→amazon link
『信長と消えた家臣たち』(→amazon link
『織田信長家臣人名辞典』(→amazon link
『戦国武将合戦事典』(→amazon link

 



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