坂本城は琵琶湖ネットワークの要所 そして可成は見事な戦死を遂げた

【編集部より】

織田・徳川vs浅井・朝倉の有名な決戦「姉川の戦い」。

現代では雌雄を決するかのような大戦に思われておりますが、実は攻城戦の流れから派生したものであり、我々が想像するようなものではなかった――。

前回までの【シリーズ信長の城】は、浅井に裏切られ、美濃から京都へのルート確保に奔走する織田軍の動きを追い、その中で姉川の戦いにも触れました。

そこで本稿では、安土城!ではなく大坂や坂本城へ参ります。

織田信長の戦略・城展開を考える上で避けては通れない重要ポイント。そして、あの重臣も奮闘の末に倒れ……ご堪能あれ(できれば前回のご確認をオススメいたします)!

姉川の戦い
「姉川の戦い」織田徳川vs浅井朝倉の決戦は実質引き分けだった?

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城郭戦での鉄砲戦術!「長政よ、これが戦略だ」by三好三人衆

ということで、前回までは姉川の戦いに触れ、そろそろ本当に安土城に高飛びしたいところですが、実はその前に信長たちは、摂津の地で新たな時代の城郭戦を展開いたします。しかも今回は河川が入り組む大坂の平地で鉄砲玉が飛び交う、新たな時代の城郭戦とあってはスルーするわけにはいきませんね!

佐和山城を付け城で封鎖したまま、信長は南近江を南下して上洛。足利義昭に拝謁します。

苦労して回復した京への道ですが信長は数日滞在した後に岐阜城に帰ります。あっさり帰ってしまうことからも信長の目的は岐阜城―二条城間のルートの確保、それが完全に回復したことを天下に知らしめることが目的だったことが分かります。

しかしこの直後、摂津で三好三人衆が蜂起します。三好三人衆は本領である四国の阿波、讃岐、淡路に戻っても、一度は本圀寺にいる足利義昭を襲撃(未遂)するなど、畿内進出の機会をひたすらうかがっていました。

ここであらためて畿内の織田・足利義昭支持派の勢力を整理しましょう。

山城一国を足利将軍家とその奉行衆の領地として、義昭直臣の細川藤孝が勝竜寺城で摂津方面から京都への進入路を押さえています。

摂津では信長が任じた摂津三守護の一人、和田惟政が高槻城、その家臣、高山友照が芥川山城を居城として、摂津側から山城への国境を固めます。

その他の摂津三守護、池田勝正は池田城、伊丹親興は伊丹城を居城に摂津を統治。

大和一国は松永久秀と久通父子が信貴山城と多聞山城を居城として支配しています。

河内の国では三好三人衆と袂を分かった三好宗家の三好義継が若江城を居城に河内半国を領地にし、そしてもう半国を畠山昭高が高屋城を居城に河内を治めています。
和泉の国は堺の町を信長の直轄地に、また松浦信輝が岸和田城を居城として、水軍と紀伊の根来衆との連携をとっていました。

 

四国に逃れた三好三人衆が畿内に入る余地は全くありません。しかも三好三人衆が畿内に復帰するには渡海してどこかに橋頭堡を築かなくてはいけません。
幸い、三好三人衆には讃岐の塩飽水軍(しわくすいぐん)が味方しており、畿内には全盛期の三好長慶の時代からの支持者もいて未知の土地ではありません。どこかに橋頭堡さえ構えることができれば、渡海は容易い状況です。

三好三人衆の最終目的は足利義昭を京から追放して再度傀儡政権を打ち立てることです。

その大戦略は摂津や河内の支配権をもう一度奪い返すこと。そのための第一歩としてまず「畿内のいずれかの地に橋頭堡を築くこと」が最初の目標となります。

しかし、圧力をかければ必ずより戻そうとする力が働きます。次の目標は、予想される足利将軍家と摂津三守護の「より戻し」に対処するため、攻められにくく補給ルートが複数確保できる敵地に城を築くこと。そして信長の後詰が期待できない今こそ、できるだけ反信長勢力を結集することでした。

そして実際に、三好三人衆は対岸に橋頭堡を築くべく動きます。渡海を伴う力づくの侵攻はリスクが高いので、調略を仕掛けることに。調略の基本は家中の内輪揉めを目ざとく見つけ、そこに介入して一方を焚きつけ火種を大きくすることです。

これに引っかかったのが摂津池田城の池田家です。

この頃、現当主の池田勝正派と息子の池田知正派に家臣団が二分され派閥抗争を繰り返していました。池田勝正は金ヶ崎の退却戦でも活躍した親信長派であります。それに反対する知正派は必然的に反信長派を後ろ盾にしようとします。
ちなみに知正派の中心的な家臣は荒木村重です。後々この荒木村重が池田家の混乱に乗じて池田家をまるごと乗っ取り、信長に臣従してしまいます。終いには信長さえも裏切ってしまいますが、この時はまだ知正派の旗頭として、反信長派の三好三人衆に援軍を求めます。

利害の一致した両者は池田家の混乱に乗じて当主の池田勝正を追放します。まんまと摂津の一角に入り込んだ三好三人衆は畿内に支持者と橋頭堡を確保しました。

 

ちょうどこの頃、信長は浅井長政に裏切られ、命からがら美濃に逃げ帰っていました。

反信長派にとってはこれ以上のタイミングはありません。三好三人衆は淡路の北、明石海峡を越えて摂津に軍勢を上陸させ、一気に東進します。そして摂津のど真ん中、中之島という河川に囲まれた土地に野田城と福島城を築き、摂津支配の足がかりを確保します。

中之島は対岸に石山本願寺があり、後に大坂城が築城される場所です。ここは河川が入り組み海も近く、当時は非常に攻められにくい場所でした。
また、三好三人衆の領地である淡路経由で援軍と物資の補給が容易な場所でもあります。三好三人衆はこの地を押さえることで、淡路の北、明石方面からのルートと、海から直接摂津に至るルートを複数確保することができます。

大坂の古地図(江戸期)/大阪府HPより引用

 

城には必ずそこに立つ理由があります。それを考えると当時の築城主の目的や考えが見えてきます。お城の構造を楽しむのもお城見物の醍醐味ですが、何故ここに城が建てられたのか、地図と地形を見比べて妄想にふけるのもオススメですよ。

摂津からの急報を聞いた信長は動きます。

自らの馬廻り衆だけを連れて岐阜城から摂津に向けての進軍。すでに大和の松永久秀や三好義継、摂津守護の和田惟政、河内の畠山昭高らが三好三人衆の封じ込めにかかります。彼らも三好三人衆の侵入を許す=領地を奪われることになるので必死です。

その間に三好三人衆は野田城と福島城の守りを固めますが、織田信長が予想以上に早く摂津に現れます。信長は天王寺に本陣を構え、三好三人衆が構築する野田城、福島城のこれ以上の要塞化の阻止に動きました。

浅井家の最前線の築城と違って、三好三人衆の築城には意味があります。

三好三人衆は池田家の内紛に乗じて摂津に上陸できましたが、石山本願寺周辺のこの地はまだ敵地です。浅井家の刈安尾城のような自領ではなく、敵地の攻めにくいという敵の痛いところに拠点を構えたことが特に重要です。
野田城と福島城は最前線を支える攻撃の拠点であり、補給の拠点であり、そして敵の大軍を引き付ける拠点、これ以上ない適地に最前線の城を構えます。

 

信長は岐阜城を出発したときは兵もわずかでしたが、急いで追いかけてきた配下の兵と(この辺りは桶狭間の頃から変わってませんね)、途中から合流した畿内の兵で数万に膨れ上がっています。これに鉄砲3千丁を持つ紀伊の根来衆や雑賀衆が加わります。

一方、三好三人衆は総勢数千。数の上では負けていますが、野田城、福島城という攻めにくい川筋に囲まれた中洲に織田、足利連合軍を引きつけました。

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©2015Google,ZENRIN

信長は最初、天王寺に本陣を置いていましたが、攻城戦に入ると石山本願寺付近の河岸に攻城用に「楼の岸砦」を築きました。また河口付近には「川口砦」を築きます。

野田城と福島城は中洲に築かれた平城です。河川を利用した水堀に阻まれ、信長得意の放火戦術どころか城に取り付くこともできません。

一般的に攻城側は攻城兵を送り込み、後方支援として鉄砲や弓を城へ向かって激しく撃ち込みます。

防御側は攻城兵の接近を阻止するために鉄砲などの飛び道具や糞尿や熱湯などを使用して邪魔をします。野田城、福島城はさらに河川が水堀の役割をして、さらに攻城への接近を難しくしました。

しかも野田城、福島城のような平城は鉄砲による射撃が効果的に機能します。山城だとほぼ真下は鉄砲の死角になりますが、平城だと攻城兵に対してほぼ平行に向かって撃ち込むことができます。特に防御側が鉄砲の特性を存分に生かすには水堀で攻城兵の進軍速度を緩め、できるだけ低い位置からの射撃が有効です。

ヨーロッパでは銃火器の発展とともに城郭はどんどん低くなっていきました。日本ではヨーロッパほど大砲が普及しなかったので、平城と水堀をいかした縄張りまでは発展しても、天守などの建造物は逆に高層化していくという独自の発展を遂げました。

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1661年に完成した赤穂城は近世城郭の最終形態です。銃火器を防御で使用するには石垣はこの程度の高さが最も有効です

 

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欧州の城塞技術を取り入れた幕末の五稜郭。理想の低さです

 

この戦いには三好方にも織田方にも雑賀衆が参加しています。この頃は雑賀衆も一枚岩ではありませんでしたので敵味方に別れて戦っていました。

三好方にも雑賀衆がいたということは十分な鉄砲と熟練者が揃っており、その特性を十分に生かせる築城をしていたことが分かります。また野田城と福島城という隣接した地域に二つの城を築いたのも、敵の分散や味方の相互支援を可能にします。

これに対して信長は河川の埋め立てを始めます。

攻城側としてはとにかく兵を城に取り付かせなければ何も始まりません。後年、大坂の陣で徳川家康大坂城の外堀の埋め立てをしたのは有名ですよね。

秀吉のように完全包囲して兵糧攻めや水攻めという戦術もありますが、どちらの戦術を選択するかは次の項目で検討します。

①守備側に籠城に耐える十分な蓄えがあるか否か
②合戦が長期に及ぶことが攻守どちらにメリットがあるか
③和睦(和解による降伏)も視野に入れるかどうか。

今回、信長は短期で決着を付ける必要がありました。信長の「性格が短気だった!」とか、「鳴かぬなら殺してしまえ」な性格だったとか不確かな理由ではなく、①まだ近江で佐和山城を包囲中であること。②朝倉家本隊の越前出陣を察知していた。③三好三人衆をせん滅したいという足利義昭の強い希望。以上の3つの理由により短期間での力攻めによる攻城戦と、戦術として河川埋め立てによる城への取り付きを選択します。

 

確実な資料が残っていませんが、朝倉家が三好三人衆に呼応して動いたことは間違いありません。大ぴらにやるものではないので資料がないのは当然ですね。

そして両者の仲介には、本願寺が一枚噛んでいました。

実は三好三人衆と本願寺は三好家が畿内を支配している頃から昵懇の仲。寺社勢力は時の権力者と繋がってこそ繁栄できます。

本願寺は一時期、武家の争いに豊富な兵力を持って介入し続けた結果、敵対する法華宗派の反撃に遭い、山科本願寺を攻略されて洛外から追い出されてしまいました。

それ以後、武家の争いには一切関わらず穏健派の寺社勢力として将軍家や管領家、また公家などと平和的に結びついて全国各地の本願寺領である寺内町の発展に勤しんでいました。織田信長が初めて摂津にやってきたときも本願寺顕如は名物を信長に献上して上洛を祝い、時の権力者との友好的な結びつきを望んでいたことが分かります。

 

今回も顕如は中立を保つ予定でした。

が、信長が摂津にやってくる前から長年つきあいのある三好家に援軍を要請され、また信長の寺社取り締まりの新方針に対しても誤解があったようで(商業利権を返上すれば信仰と権利は認める)、結果的に本願寺内で強硬派の声が大きくなり久々の参戦を決めます。

信長が本願寺に石山からの退去を求めていたとも云われていますが、これには確かな証拠はありません。

神仏を信じない信長は寺社に対して強硬だったと思われがちですが、安土城内にも寺を建立しましたし、何より後年、本願寺との和睦がなってからは信長との約束を遵守し続ける本願寺と完全に和解し、布教を始めすべての権利を認めています。

本願寺にとってむしろ憎きは加賀や能登で100年以上も争ってきた朝倉家のはずです。そして本願寺の最も強硬な一派は北陸にいました。おそらくこの和解に三好三人衆が仲介し、そのお返しに反信長連合への参加、そして京への進軍となったのでしょう。

ちなみに浅井家は近江の一向一揆とは早くから手を結んでゆる~い付き合いをしていましたので、浅井家と本願寺も昵懇の仲です。浅井家の大同盟への参加は、同様に近江寺社領の保護で繋がる延暦寺勢力も味方につくことになります。
本願寺と延暦寺は相容れない仲ではありますが、このような三好三人衆や浅井家などの武家を仲介に繋がっていったのです。さらにここに旧領回復を願う南近江の六角ゲリラが加わります。

三好三人衆―本願寺―朝倉―浅井―延暦寺―六角の利害はここですべて反信長で一致しました。

 

しかし! そうは簡単にコトが運ばないのが世の常です。

信長の進軍速度と攻撃力は凄まじく、三好三人衆はたまらず和睦を提案します。これに対し、三好三人衆を駆逐したい信長と義昭は和睦を拒否。本願寺もホンネは蜂起よりも早期の和睦がよかったのでしょうが、信長はこの機会に三好三人衆の勢力を完全に絶つことを狙っていました。

三好三人衆せん滅の意志は信長より足利義昭の方が強かったともいわれています。本圀寺滞在中に襲撃された記憶も新しく、何より三好家は父・足利義晴を都落ちさせ、兄・義輝を殺害した仇敵です。

義昭の三好家への敵愾心や恐怖心は並々ならぬものがあり、義昭は遠く中国地方の毛利元就や九州の大友宗麟にも参戦を依頼したり、四国に潜む三好三人衆に対して壮大な包囲網を画策していました。その度に、信長からは「俺様の断りなしに勝手に指示出すんじゃねえ!」と怒られてしまうという、この二人は実はナイスコンビなんじゃないかと心温まるエピソードもあるほどです。

この和睦拒否が、今度は織田、足利連合軍に想定外の出来事をもたらします。

信長は天王寺方面から楼の岸砦経由で川を渡り、海老江という場所に移動していました。ここで義昭と落ち合ったのですが、楼の岸砦と川口砦の背後の石山本願寺が決起したのです。

前回の洛外の城の紹介の時に、本願寺が各地に散らばる寺のネットワークを駆使した地域間の技術交流があり、城郭技術を発展させた、まさに戦国のグローバルカンパニーだ!と述べましたが、本願寺は戦闘でもこのネットワークを如何なく発揮します。織田家の領地内に散らばる一向門徒に一斉蜂起を指示し、尾張、伊勢長島、南近江の一向門徒衆が蜂起したのです。

 

相変わらずの朝倉クオリティーな進軍でしたが周回遅れがたまたまピッタリあってしまったのか、近江北部からは軍奉行の朝倉景鏡率いる朝倉本隊が浅井長政の本隊と合流して、このタイミングで琵琶湖西部の高島付近に現れます。ちなみにこの近江高島郡がデパートの高島屋の名前の由来です。近江商人の流れだったんですね。

さすがの信長もピンチを感じたでしょう。

京を奪われること以上に東西から挟撃され、美濃からの進軍ルートをまたしても遮断されることは最も避けたいところ。信長は三好三人衆への対処を和田惟政や松永久秀、三好義継に任せます。メンツを見ても分かるように、三好三人衆とは旧知の仲の武将たちを野田城、福島城包囲に置いていきました。つまり和睦交渉のサインです。

 


信長人生最大の危機も、朝倉クオリティーがぶち壊す「志賀の陣」

朝倉・浅井連合軍の動き

朝倉・浅井連合軍の動き/©2015Google,ZENRIN

 

この間に信長は全力で京に帰還します。しかし一歩早く、朝倉・浅井連合軍が近江の坂本にたどり着きました。
この近江の坂本という町は、後に明智光秀の居城「坂本城」となることで有名ですが、この頃は琵琶湖に臨む一大商業地であり、延暦寺の門前町でした。ここに朝倉・浅井連合軍が進駐してきましたが、坂本に近接する宇佐山城の森可成が城から打って出て戦いを挑みます。

織田家の軍勢、特に尾張以来の譜代家臣たちは南近江に分散して駐留しているだけでなく、信長と共に摂津方面にも出払っています。森可成の宇佐山城は包囲には耐えられる山城であっても打って出るほどの兵力はありません。しかし籠城したところで味方の後詰めもまず期待できません。

劣勢の森可成が少数で打って出た確実な理由は分かりません。が、坂本の町を朝倉、浅井連合軍、特に朝倉家に押さえられると織田家にとってまずい状況だったのでしょう。森可成には全力で坂本の町を押さえる指示が出ていた可能性はあります。

 

この頃の信長には既に坂本城築城の構想と、琵琶湖を介した支城ネットワークの構想ができていたと考えられます。浅井家滅亡後、琵琶湖を完全に支配下に置いた信長は、近江の諸城を山城からすべて琵琶湖岸に集約させました。
美濃路へ続く方面には佐和山城、東は小谷城を廃城にして湖畔に長浜城を築城。そして西には高島の地に大溝城。南部の京へ至る場所には琵琶湖にせり出すように坂本城を築城し、南東に観音寺城を廃して安土城を本拠地に据えます。

これらの城はすべて商業地を抱え、軍事的には内湖から琵琶湖へ通じ、船での大軍の素早い出撃が可能であり、相互に連携が取れるシステムでした。
岐阜城のイージスシステムの発展型ともいえる「攻めの城」の最終形態とも言えます。

信長の城の特徴として、城を既にある商業地に隣接させて城下町として取り込むように築城したことは前回紹介しました。

安土城のように隣接する観音寺城の方が標高が高く要害堅固にも関わらず、常楽寺周辺の商業地を取り込み、琵琶湖の水運をいかせる安土山に築城することを良しとします。
信長は攻めの城と共に、いかに商業利権を城下に取り込むかも重視していたかがよく分かりますね。

 

このような構想が既にあったからこそ、坂本の町の防衛は必須だったのかもしれません。

坂本の町を朝倉家に完全に掌握されてしまうと、琵琶湖経由で朝倉方が出撃してきますので、近江のどの地域にいても朝倉、浅井との二正面作戦を展開しなくてはならなくなります。包囲中の佐和山城との連携も十分に可能です。同時に比叡山経由で京都への進軍も可能ですので、朝倉家に戦いの主導権を完全に握られてしまいます。

こうした事情を抱えていたためか、この地で信長の弟・織田信治、蒲生賢秀の弟・青地茂綱、そして森可成は討ち死。

残った部下たちは司令官不在の宇佐山城に戻り、激しい籠城戦を行い、からくも落城を免れました。何とも皮肉な結果です。森可成も籠城していたらおそらく死ぬことはなかったでしょう。

森可成は血気にはやる年頃でもないのでやはり坂本出撃の指示は出ていたのは確実です。結局、朝倉方は宇佐山城の攻略をあきらめ、坂本を押さえたまま大津方面に南下し、醍醐から山科に入って、京を伺います。

 

しかしこれに信長が素早く反応し京に戻ってきます。

朝倉・浅井連合軍は信長の入洛を受けて、反転して比叡山に上り、陣を構えました。足利義昭は朝倉家が比叡山から下山してくることを想定して、将軍山城と中尾城に封鎖線を引きます。信長は休むことなく坂本へ向けて出陣します。

ところが朝倉・浅井連合軍は出てきません。

というか坂本の軍事的重要性を全く理解していなかったのか、坂本からも比叡山に軍を引き上げてしまいます。この坂本の地が要衝であることから決戦になることを信長は覚悟していたと思います。しかし相手が戦のド素人でした。

あるいは、この動きから朝倉・浅井連合軍は信長との野戦を意図的に避けていたことも考えられます。この後2ヶ月以上も比叡山に篭ったまま出てきません。

信長は延暦寺に対して、朝倉、浅井の味方をやめなければ、攻撃するぞと脅しますが、相手はこれを無視。また、信長自ら決戦を朝倉家に申し込むもこれも無視されます。信長にしてみれば坂本を押さえることに成功さえすれば、ある程度の防衛成功なのですが、摂津や各地の一向門徒の動きが気になります。

 

結局、信長は比叡山を包囲したまま動けずじまい。

この間に石山本願寺が信長の領地に散らばる末寺に決起の檄を飛ばし、方々で一向宗一揆が蜂起しました。

南近江の一向一揆は美濃−京都間の街道を封鎖にかかります。六角ゲリラもこれに与して南下します。長光寺城の柴田勝家は摂津方面の後始末、佐久間信盛は京に駐留中で、ほぼ無防備な状況です。

信長は包囲したまま動けずにいましたが、小谷城と佐和山城の押さえとして置いていた横山城の秀吉と丹羽長秀がいち早く状況を察知して一向一揆せん滅のために軍を南下させました。

南近江の一向一揆は北陸ほど戦闘に慣れてはいなかったので、すぐに鎮圧されます。そのまま信長の元に駆けつけ、事なきを得ます。包囲中の信長は無為に過ごしていたのではありません。南近江方々に調略の手を伸ばし、六角家ともついに完全に和睦し、長政を激怒させます。

しかし長島で起こった一向一揆の蜂起は信長の弟・信興を敗死させます。軍の大半を近江から摂津に展開していたため、長島の一向一揆に後詰めできる軍はほとんどなかったと思われます。一向一揆の立てこもる長島の地もまた野田城、福島城のような水に囲まれた平城であり、特殊な攻城戦術が必要で、信興には荷が重過ぎました。

このとき信長は人生最大の危機に陥ち入ったといわれますが、私は朝倉・浅井連合軍が坂本の地から兵を引き上げた時点で、その危機は既に去っていたと考えます。

 

 

11月末になり寒くなってきた頃、朝倉家が天皇の仲介による和議を受け入れ、両軍撤退となりました。

朝倉、浅井にとっては絶好のチャンスを逸したのですが、朝倉家は雪が降る前に帰国したい一心で、その自覚が全くなかったようです。

信長と義昭が依頼して実現した天皇の勅命による和議は、特に織田家と浅井家に関わることが主な内容でした。両家の城について、何を残し、何を破却するか、つまりお互いの境界を明確に定めました。詳しい城名については記録が残っていません。

1970年(元亀元年)12月に和議がなり、元亀2年の1月、佐和山城の磯野員昌が包囲する織田家にあっさり降伏、佐和山城が織田家のものになっています。

ここで疑問ですが、境界を定めて和議がなったにも関わらず、織田家が引き続き佐和山城を包囲し続けることができるでしょうか。必ず停戦と同時に軍を撤退させるはずです。

しかし佐和山城の立ち退きが和議の条件に含まれていたと考えるとしっくりきます。

磯野員昌が織田家に寝返った理由についても信長公記の記述を追うと納得できます。佐和山城を開城して磯野員昌が小谷城に戻ろうとすると、浅井長政は員昌が織田家に通じていると思いこみ、員昌の母を殺してしまい、行き場を無くした員昌を信長が高島の領地を与えて家臣に引き立てたと書いてあります。

 

磯野員昌ほどの猛将かつ信頼厚い武将が簡単に織田家に降りたたのはちょっと考えられません。志賀の陣も朝倉・浅井が優勢のうちに終えていますので織田家に鞍替えするメリットもないでしょう。

織田家出仕後の磯野員昌のやる気の無さ(いい仕事しない)っぷりを考えると、織田家による離反の計があったようにも考えられます。もしくは敵地で孤立しながらも命がけで守ってきた佐和山城を、和議の紙切れ一枚で簡単に織田家に与えてしまった長政の失策に員昌が怒り、突発的に仲違いしたのかもしれません。

真相は不明ですが、いずれにしろ信長と義昭は、佐和山城の重要性など全くわからない公家に働きかけて和議の条件に盛り込み、信長最大の懸念事項だった佐和山城をまんまと手に入れたことは間違いありません。

佐和山城が手に入り、岐阜城から南近江へ至るルートが繋がりました。近江の一向一揆も制圧し、堅田の湖族に対しては当初、湖上の権利の剥奪を狙っていましたが、坂井政尚が反撃にあって戦死するなどしたので、逆に権利を認めることで支配下に置きます。

従う者には案外ゆる~いのも信長の統治の特徴でもあります。

 


延暦寺さん、お仕置きの時間ですよ(フリーザ様風)

しかし、従わない者には容赦しないのも信長の統治。

1571年(元亀2年)になって織田軍は急遽比叡山延暦寺を攻めます。泣かぬなら殺してしまえの典型例のような仏敵信長のイメージを作ってしまった出来事ですが、当時の畿内の寺院は城郭化していて、度々焼き討ちに遭っており、比叡山自体も歴史上、何度も焼き討ちに遭っています。

信長は前年に「朝倉、浅井に味方するな」という勧告を受け入れなかった延暦寺に相当な恨みを持っていたと考えられてはいます。が、天下布武を公に掲げるような統治者が恨みつらみだけで行動を起こすようなことはしません。

前回の洛外の城郭について少し紹介しましたが、近江方面からの京の防衛については時の統治者たちにとっては長年の懸案事項でした。それは比叡山の延暦寺によって京へ至る重要な進軍ルートの一つが押さえられているからです。将軍は城を造らないという洛中の非現実的な感覚のままでいた時は、何度も近江方面から京への軍の侵入を許しました。

三好長慶の時代になって将軍山城が築城されたり、第12代将軍・足利義晴の時代には銀閣寺の裏山に中尾城などが築城されました。これすべて比叡山方面の押さえとして城が造られています。

しかしより高所で、しかも軍の駐留が可能な場所は延暦寺が押さえており、洛外の諸城も所詮、自領内を固めるための城であって「攻めの城」ではないため、これらの城を持ってして延暦寺や近江方面の侵入者を脅かすものではありませんでした。

 

信長も、上洛後はこの難題がずっと懸案事項で、織田方は京へ至る複数の道路を封鎖して、道路を架け替え宇佐山城の下を通過する道しか通行を許可しないという方法を取りました。宇佐山城は山城で、おそらく岐阜城のイージスシステムをこの地に導入しようとしたのでしょう。

戦には負けましたが、朝倉・浅井の坂本侵入をいち早く察知し待ち構えることができました。また、宇佐山城自体の防御能力も坂本の戦い後にやって来た朝倉・浅井連合軍を撤退させ、有効性を証明しました。しかし宇佐山城より標高が高い比叡山に対しては、坂本から比叡山に登り、そこから直接、上洛できるので宇佐山城のイージスシステムが機能しません。

実際、比叡山に陣取った朝倉・浅井に対して信長は手も足も出ませんでした。こうなると比叡山から延暦寺を追い出さなければ京の安全は今後も保障できないと考えるのは当然でしょう。

ここで普通の人であれば、「しかし相手は何百年も続く宗教施設・・・」と考えてしまいますが、何事も合理的に考える信長にとっては「出て行かないなら排除!俺様の指示無視したし!」となります。
かくして延暦寺攻めは始まりますが、信長の目的はあくまで京都の安全保障の強化だったことを念頭に置くと、延暦寺焼き討ちから坂本城完成までの流れが、京都100年の懸念事項を一気に払拭した信長さんグッジョブ!な諸行だったことが分かります。

 

延暦寺焼き討ち後、門前町だった坂本の町は完全に信長の支配下に入りました。

年初に信長は佐和山城を手に入れていますので、佐和山城―宇佐山城間の湖上の後詰ルートを確保。これで遠く敦賀から琵琶湖北岸経由で京に入ってくる物資や人の流れを掌握することが可能になりますし、岐阜城から湖上ルートで上洛することも可能です。

何より複数の進軍ルートを確保することは軍事上必須です。

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そこで信長は坂本の地に新たに「坂本城」を築城します。

この坂本城は延暦寺攻めで功績のあった明智光秀の居城として有名ですね。当時では珍しく琵琶湖に突き出た水城だったといわれています。また天守も備えた現代でもおなじみのお城の形をしていたものと考えられています。しかし坂本城の能力はこんなものではありません。

坂本城は坂本から比叡山へ入る道も管理することが可能で、さらに大津方面にも陸路、水路ともに素早い出撃を可能にします。同時に坂本の商業利権も支配下に置くことができます。広大な琵琶湖には遮るものがないので、宇佐山城のような山の上に行かなくとも湖のほとりに天守を建造し、湖上の支城ネットワークで哨戒網を形成すれば十分にイージスシステムが機能するのです。

これでようやく京都防衛の100年の悩みであった近江方面からの防衛力強化を達成しました。長年に渡って様々な支配者による様々な防衛の試みがなされてきましたが、正解は延暦寺制圧と坂本の地に築城することだったのです。

 

この地域への築城は秀吉、家康の時代になっても踏襲されます。秀吉は坂本城を廃城にして大津に「大津城」を築城します。

坂本城は琵琶湖対岸への素早い出撃も念頭に置いた「攻めの城」でした。敵対勢力を坂本城ではなく琵琶湖の対岸で迎え撃つためにより出撃しやすい湖上のほとりに位置しています。
秀吉の時代は全国統一されていますので、攻めの城としての要素より、琵琶湖の水運と大津の大商業地を取り込むための城として重きを置かれます。関ヶ原の戦いでは西軍に攻められてあっさり落城してしまったように、軍事的には要害の地ではなかったことが分かります。

家康の時代になると江戸と京を結ぶ東海道の強化が重要となりますので、陸路の東海道により近く、古来より要衝の瀬田の防衛も念頭に置いた場所に築城されます。これが「膳所城(ぜぜじょう)」です。

このようにこの地の築城は時代や統治者の築城思想を反映していますが、同地域への築城が近江の商業利権を押さえるだけでなく、京都の防衛に最重要な場所だったことは、いつの時代も共通認識としてあったことが分かります。

坂本城築城以後、京の町が戦乱に巻き込まれるという戦国時代の風物詩がピッタリやんだことが何よりの証明です。

坂本城築城をもって宇佐山城は無用となり廃城になりました。

森可成の死が悔やまれますが、信長は彼の死をもってこの地の重要性をあらためて認識したのではないでしょうか。

安土城がなぜあの地に築城された?

それもこれも信長の城の集大成がこの琵琶湖を取り巻く支城ネットワークであり、琵琶湖そのものを巨大な水堀として安土城に取り込んだ超時空要塞だったことがみえてきましたね!

続きは次回で!

筆者:R.Fujise(お城野郎)

武将ジャパンお城野郎FUJISEさんイラスト300-4

日本城郭保全協会 研究ユニットリーダー(メンバー1人)。
現存十二天守からフェイクな城までハイパーポジティブシンキングで日本各地のお城を紹介。
特技は妄想力を発動することにより現代に城郭を再現できること(ただし脳内に限る)。


 



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