永平寺(永平寺唐門)

明智軍記

義景が光秀に問う「鉄砲時代に城を築くならどこ?」超わかる明智軍記第4話

出自や前半生の史実が、ナゾだらけの明智光秀

その生涯を描いたとされる『明智軍記』(軍記物=小説)を読み解く本連載の第4話は【築城】がテーマです。

『明智軍記』

第4話「朝倉義景永平寺参詣事付城地事」
朝倉義景、永平寺参詣の事。付けたり、城地の事

朝倉義景の父・朝倉孝景の17回忌にあたる永禄7年(1564年)3月22日。

吉祥山永平寺(福井県吉田郡永平寺町志比)に参詣した帰り道、義景が明智光秀に問いかけました。

「これからは鉄砲の時代であろう。それを踏まえて城を築くならどこがよいか?」

光秀と築城――とは非常に興味深いテーマ。
早速、見て参りましょう。

 

戦術の変化により山城から平城へ

永平寺での法要を終えた朝倉義景は、山道を歩きながら一乗谷へ帰ります。

「出駕」とありますから、往路は駕籠に乗って一乗谷を出たのでしょう。
それが帰りは徒歩……という素朴な疑問はさておき、義景は、築城術に長けているという明智光秀を呼び、城の立地条件について質問するのでした。

明智光秀の答えは、次の通りでした。

「山間部に城を築くと、隣の山から大筒で撃たれるので駄目です。城は山から20余町(約2km)以上は離しておくのが得策です」(意訳)

鉄砲の普及で城の立地条件はどう変わったか?

敵を城に近づけさせない――つまり、できるだけ遠くから鉄砲を撃たせて、殺傷能力や命中率を下げることが重視されました。

そのため第一に考えられたのが「堀の強化」です。

城の周囲にある最もシンプルな防御システム。
それが堀でしょう。

幅を広げたり、二重、三重にすることにより、侵入の難易度を高める。
それが可能なのは、山ではなく平野ですから、山城から平城に移り変わりました。

また、合戦が局地的な1対1の一騎打ちではなく、槍隊や鉄砲隊などの集団戦へ移行したのも、城が平野部に移った大きな要因だと考えられています。

こうした戦術の変化は、城の立地だけでなく構造にも影響を与えました。
例えば、土塁の上に石垣を築いて壁を高くしたり(鉢巻石垣)、城壁を厚くして鉄砲狭間を設けるなど、時代に則した機能も設置されていったのです。

 

城の周囲に置く障害物とは?

第二に考えられたのは、城の周囲に障害物を置き、敵との距離をとることです。

人は城、人は石垣、人は堀――という武田信玄の言葉が意味するところとは異なりますが、敵と城との間に「武家屋敷」や「民家」という障害物を建てるのです。
しかも、建設費用を各自負担で設定できれば、大きな堀を作るより安価で、時間もスペースも少なくて済みます。

何より一石二鳥。
城の防衛機能と商業機能を合わせ持つ「城下町」の登場です。

もちろん城下町を守るための工夫も疎かにはできません。

それが町全体を堀や石垣、土塁で囲む「惣構(そうがまえ)」でした。
総曲輪(そうぐるわ・総郭)とも呼ばれ、最も有名なのが小田原城ですね。

あるいは、その惣構に似た構造を好んでいたのが、織田信長を苦しめたあの集団の町。
一向宗の「寺内町(じないちょう・じないまち)」です。

寺内町は、寺を中心とする自治集落であり、畿内エリアを中心に北陸や東海地方へ普及し、そのうち最も著名なのが石山本願寺でした。

明智光秀は、朝倉義景の問に対し、

「越前国で平城を築くなら北ノ庄、山城を築くなら長泉寺山。日本で最もいい場所は石山(大坂)」

と答えています。

「越前北ノ庄城址」碑(題字は柴田勝家のご子孫の平山郁夫画伯)

本願寺顕如&本願寺教如親子による石山本願寺(大坂・大阪府大阪市中央区)が最高だということですね。

確かに石山は、川という天然の堀に囲まれており、織田信長の攻撃を約10年に渡って退けるほど強力な防御機能を有した拠点でした。

石山(大坂)については『信長公記』の記述も見ておきましょう。

※なお『明智軍記』第31話「信長公越前進発事付義景自害事」に、以下のような溝江長逸の言葉があります。

「此の一乗城は、御先祖・英林入道より以来、百余年繁昌の地なれば、屋形の結構丁寧をば尽くされけれども、昔には違ひ、只今は鉄炮多き時代にて、禦(ふせ)ぐに不足の要害と覚へ候」

朝倉氏の本拠地は、英林(朝倉孝景)が一乗谷に定めてから約100年になる。この100年間で改修されてはいるが、鉄砲の時代には不向きな場所である

 

そもそも大坂は日本一の境地である

『信長公記』では、石山本願寺のことをどう評しているか?

抑も大坂は、凡そ日本一の境地なり。

そもそも大坂は、日本一の「境地(=場所)」である。

だそうで、太田牛一もべた褒めですね。

では、なぜ日本一なのか?

其の子細は、奈良、堺、京都に程近く、殊更、淀、鳥羽より大坂城戸口まで、舟の通ひ直にして、(中略)五畿七道こゝに集まり、売買利潤、富貴の湊なり。

奈良、堺、京都に近く、水運にも恵まれ、五畿七道の産物が集まって売買されるから経済的にも恵まれた港である

守りやすいだけでなく、流通面でも恵まれているというワケですね。

ご覧のとおり川だらけの石山本願寺(石山合戦図)/wikipediaより引用

もっと詳しく見ておきますと……。

【石山本願寺はどんなトコ?】

石山は近隣諸国の一向宗門徒が集まり、加賀国からは築城技術者も来ていた。
1辺が8町(約873m)の正方形である寺内町で、中央には高台があった。

そこに宗徒が「水上の御堂」(石山御堂)と呼ぶ建物を高々と建立し、建物の前には池を掘って
「一蓮託生の蓮」
(共に極楽往生して同じ蓮の上に生まれようという蓮)
が植えられていた。

建物の後ろには、仏や菩薩が人々を救うための「弘誓ぐぜいの船」も浮かべられており、こうした救いを求めて昼夜を問わず門徒が次々に集まってくる。
そして多くの家が建てられた。

それにしても明智軍記第4話の最後の数行は美しいですね。

既に暮れなんとする春の気色、梢に残る遅桜、折り知り顔に藤波の松に懸かりて、色深く山吹のきよげに咲き乱れたるなど、取々興ぜさせ給ひて、一乗の谷へぞ帰城成りにける。

ここだけ読んで『明智軍記』は俳人(蕉門)が書いたと考えた方がおられるくらいです。

『明智軍記』の作者については、時宗の僧侶とする説もあります。
ただ、もしそうであれば、永平寺ではなく、称念寺について詳しく書いたと思いますから、やはり小説家が書いたのでしょうか?

さて、次回は三国湊など、

「北海舟路事付根挙松事」
(北海の船路の事。付けたり、根上がり松の事)

になります。
お楽しみに (^^)/~~~

文:戦国未来

※本記事は『明智軍記』の現代語訳・原文をもとに周辺状況の解説を加えたものです

※現代語訳・原文を全文でご覧になりたい方は以下の記事を御参照ください

 

明智光秀略年表

この年表は65回の連載が終わると完成します。

元号年(年齢) 起きたこと
享禄元年(1528年)1歳 父・光継が早世。叔父・光安に明智城で育てられる(明智軍記 第1話)
弘治2年(1556年)29歳 斎藤義龍に明智城を攻められ、光安は討死、光秀は脱出(明智軍記 第1話)
称念寺領内に妻子を預け、諸国武者修行に出発(明智軍記 第3話)
永禄5年(1562年)35歳 6年間の諸国武者修行を経て帰国(明智軍記 第3話)
永禄の一揆】において、大将にアドバイスし、鉄砲を使って鎮圧に貢献する(明智軍記 第2話)
永禄6年(1563年)36歳 4月19日、鉄砲演習。この結果、鉄砲寄子100人を預けられる(明智軍記 第3話)
永禄7年(1564年)37歳 3月22日、朝倉義景に城の立地条件を語る。(明智軍記 第4話)

 



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