小牧山城

信長が初めて築いた「小牧山城」が織田家の戦略を一変! 狙いは犬山城?

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美濃攻めといえば【墨俣一夜城】はどうしたんだ?

ここでいったん一呼吸おき、豊臣秀吉若かりし頃の超有名な逸話についても触れておきましょう。

逸話とは他でもありません。墨俣一夜城のことです。

【さっきから地名が何度も出てくるが、いったい当時はどうなっていたのだ?】

なんて一応疑問は呈したものの、皆さんお気づきかもしれません。

信長の侵攻ルートと電光石火の進軍があれば、墨俣に一夜で城を造る必要なんてありません。

というかそもそも森部の戦いでの斎藤方の集結地点、つまり最前線の拠点が墨俣の砦でした。墨俣一夜城の話はもう少し後の話ですが、残念ながらこの時点で既に砦=城は存在していたのです。

ということで新当主・斎藤龍興織田信長の侵攻を食い止めて、信長は尾張に撤退していきます。ついでに墨俣の砦も結局は斎藤方に奪い返されて、信長の火事場泥棒的な美濃侵攻は事実上失敗しました。

しかしこれはあくまでボーナスステージ。それほど痛手ではありません。信長は当初の戦略に戻ればいいのです。

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信長、境目の城「犬山城」に裏切られる

この後、斎藤龍興は尾張犬山城主の織田信清を誘い自陣に引き込むことに成功します。

実際に信清が反信長の行動を起こした記録は、義龍死後の永禄5年(1562年)に、信長方の「楽田城(がくでんじょう)」を落としたというのがありますが、これより前、斎藤義龍が存命のときに既に調略にかかっていた可能性があります。

というのも斎藤義龍は桶狭間以前から尾張領内で調略しまくっていたからです。

有名なところでは信長の弟・織田信勝織田信行で有名です)や、岩倉織田家を信長から離反させたのも斎藤義龍によるものとされています。

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信清が離反したことで尾張の北半分は実質的に斎藤のものに。信長ピンチ!/©2015Google,ZENRIN

織田信清は信長の従兄弟にあたる人物で、信長の姉「犬山殿(犬山城に嫁いだので犬山です。ちなみに「お犬の方」は別人です。ややこしい・・・。)」を妻にも迎えた親戚中の親戚でした。

桶狭間以前に尾張で勢力を誇っていた岩倉織田家の織田信賢を攻めたときは信長に援軍を送り、形勢を逆転させた功労者でもあります。

が、その後の岩倉織田家の旧領地の分け前に不満を持っていました。それが思わぬ……。

 

国境城主へのケアが不十分だった信長の失策!?

不満を持つ味方が、境目の城にいるとたいへん危険です。

武田信玄真田幸綱真田幸隆)なら真っ先に調略に取り掛かるメシウマな状況。彼ら同様、調略が大好きな義龍が何もしてないと考えるほうが極めて不自然です。

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つまり、信清の離反は、国境の城主に対する十分なケアがなかった信長の失策とも言えるワケで、これは言い訳のしようもないでしょう。

およそ名将と呼ばれる武将は境目の城を守る部下に対し、かなりマメに苦労をねぎらいます。

手紙を頻繁に送って感謝の言葉を伝えたり、周辺情報を与えて安心させたり。

武田信玄は自分に寝返った境目の国人には「いつでも援軍を出す」と安心させる手紙を何通も出し、伊達政宗は会津と敵対した際、境目の桧原城を守る家臣・後藤信康を心から労わっていた手紙が残されています。

境目の城とは、それほどのストレスと、そのストレスに負けて寝返るリスクを内包しているのです。

そして織田信清もそのストレスと敵の甘い言葉の狭間で揺れ動き、ついに犬山城とその支城ネットワークごと美濃の斎藤方に寝返ってしまいます。

信長は信清に姉を嫁がせているから大丈夫だとタカをくくっていたのでしょうか。

後年、同じように浅井長政に裏切られるなど、信長にはこの辺の甘さが死ぬまで直りませんね。同じ過ちを繰り返してしまうところが信長の魅力でもあるのですが。

 

犬山城をどう攻略するか?てか、できるのか……

ここで犬山城について少しご紹介したいと思います。

犬山城は現存十二天守の一つとしてあまりにも有名な城ですが、今の天守は残念ながら織田信清時代のものではありません。

立地を見てみますと、犬山は「山」の字の独立峰で、これを男山と呼びます。

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犬山城を味方につけることは斎藤方にとっても尾張への橋頭堡になるばかりか、鵜沼城、伊木山城と連携することで木曽川の水運利権を確実なものにします/©2015Google,ZENRIN

ちなみに連峰を女山(文字で表すと「山山」)と呼び、築城に向いているのは通常、男山とされています。何故男と女で表現するかというと、男女の体の違いを想像すればよく分かります。

通常、男山が築城に向いていると言われています。山頂から360度見渡せて、山城の最大の弱点となる尾根伝いの攻め口もないので強固な山城となるからです。

犬山城は今でこそ風光明媚な立地として知られますが、大河の岸辺の切り立った独立峰を攻めることを想像してください。

しかも今までほぼ野戦か、城攻めについても平地の「館」規模の城しか攻めたことがない信長軍です。

「いや、ちょっと待てよ」となるでしょう。

ということで織田信清時代の犬山城で重要なポイントは「山城であること」と「美濃との境目の城であること」。

この2点でした。

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