小牧山城

信長が初めて築いた「小牧山城」が織田家の戦略を一変! 狙いは犬山城?

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相手が堅城なれば「是非もなし! 訓練あるのみ!!」

犬山城を立地的に見ると、木曽川を挟んで対岸は美濃の国となっております。

通常、川沿いの城は水運や渡しの管理を受け持ち、この木曽川も下流は尾張の大商業地区、上流は豊かな森林資源など、人と物資の交流が盛んな地域でした。

両岸を船で結ぶ「渡し」もあります。こうした通行料や渡し賃は結構なカネになり、巨大な利権を堅固な犬山城で管理する織田信清が、信長の次のターゲットとなったのです。

これは同時に、信長にとっては初めての山城攻城戦でもありました。

あの堅城は一体どうやったら攻略できるのだろう。尾張勢には、国内の平城や館相手の攻城戦しか経験がありません。

では、経験がなければどうするか?

「是非もなし! 訓練あるのみ!!」

ということで、ひたすら訓練に励むことになります。

織田信長の直轄軍(親衛隊とも言います)は、よく軍事訓練をしていたそうです。

織田家には軍事訓練の習慣はしっかりと根付いているので、適当な山を犬山城と見立てて訓練あるのみですが、清須周辺には山がありません。

また同時進行で犬山城の支城ネットワークを分断して、犬山城を孤立させなくてはなりません。訓練だけしていればいいという訳にはいきません。

ここで信長は決断します。

「是非もなし!山に引っ越すぞ」

 

永禄6年(1563年) いよいよ小牧山城築城へ

信長は当初、尾張北方の「本宮山(ほんぐうざん)」への本拠地の移動を提案したと言われています。

が、これは家臣団の猛反対に遭い、「な、ならば小牧山でどうだ?」と提案したところ、「そこならまだマシ」となり、小牧山への移動を決めたと言われています。

信長はもともと小牧山が第一希望であり、最初から小牧山への移動を提案すれば反対にあうので、より条件の悪い本宮山を見せ球に使ったという、なかなかの逸話ですね。

ワガママな家臣団を転がせるには面白い一手で、できすぎた話ゆえにどこまで真実か不明ながら『信長公記』にも記されています。

小牧山城移転に見る信長の知恵~戦国初心者にも超わかる信長公記42話

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地図を眺めてみると、本宮山が(見せ球でテキトーに使われた)的外れな場所であったかというと、決してそうでもありません。

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小牧山城に移転することで犬山城がぐっと近くなります(本宮山は右側の黒い拠点)/©2015Google,ZENRIN

本宮山は犬山城より高く、敵を見下ろせる絶好の場所に位置します。付け城戦術を指揮するには最適な場所でしょう。

ついでに山城攻略の訓練にも最適な山であり、犬山城攻略の拠点としてここ以上の山城はないでしょう。

しかし「田舎過ぎる」というのが致命的でした。

城下町を造ろうにも清須や大商業地である津島や熱田方面から遠く、この当時は商業地へ続く河川や水路もありません。

戦国時代の尾張の都市部は今よりもずっと川と水路が張り巡らされた地域でしたので、河川のない山生活など尾張の人々には想像もつきません。

彼らにとっては
【NO RIVER,NO LIFE】
なのです。

信長といえば独断即決で家臣を振り回していたイメージですが、決してそんなことはありません。家臣団の生活の充実があってこその無敵の織田軍団です。

 

清州城よりも断然近く、見晴らしもよい絶好の立地

そうこうしているうちに織田信清が先に動いて、本宮山のふもとにほど近い楽田城を奪取。信清も本宮山への動きを察知していたのかもしれません。

ともかくこれで小牧山への移転が決まりました。

本宮山と比べて小牧山は犬山城からやや遠いです。が、清須城よりは断然近く、さらに稲葉山城も遠望できます。

独立峰の男山なので360度のパノラマもOK。

山というより丘に近い高さですが、尾張では貴重な3次元の「高さ」です。また小牧山城の少し西を流れる川は、途中で五条川につながっており清須城下を流れています。これは家臣団の心理的な抵抗を和らげます。

桶狭間の戦いから3年後、1563年(永禄6年)に信長は小牧山城の築城に着手します。

当時の文献には「火車輪城」という名で出てきますが、曲輪が等高線のように段々に重なっているため「車輪」と表現されました。

また、小牧山城の本丸・主郭部分には、石垣が使用されました。以前から本丸部分には2段構えの石垣の存在が知られていましたが、今年に入ってさらに3段目の石垣が発見されたというニュースもありましたね。

注意してほしいのが、石垣が使用された箇所はあくまで城の主郭、本丸(等高線の上部)を囲む部分であり、小牧山の山全体が石垣で覆われていたわけではありません。小牧山城の山頂部分が総石垣で、残りの大部分は土塁でできた土の城です。

当時、石垣を多用した城や寺院は尾張には存在しませんでした。

信長がどこで着想を得たのかはいまだに不明ですが、最も攻撃を受けやすい山のふもとに近い部分ではなく、遠目にしか見えない主郭部に石垣を張り巡らせるという手法は「守る」というより「見せる」に力点が置かれているとも言われています。

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今でも城下町の名残りを道路に残しています/©2015Google,ZENRIN

この小牧山城の南側には家臣たちの屋敷と城下町が新設され、惣構えで城下を囲っていました。

また、小牧山の南面には山の麓から主郭に向かって一直線の大手道が配されています。

後の安土城にも見られる構造ですが、作った理由はいまいちわかっていません。

一説には、天皇を迎えるための専用通路と考えられていますが、小牧山時代の信長は、まだ天皇を迎えられるほどの位を極めておりません。

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これは安土城の大手道。左右は屋敷跡です。ここも南側に面しているので、山の手の高級住宅地という感じがします

北方の犬山城に対して裏側にあたる南側にこのような直線道路を配置したことを考えると、合理的な思考から、攻撃を受けにくい箇所からの素早い出撃が可能な軍用路として配したのかもしれません。

ちなみに主郭部分に近づくとこの大手道は左右に複雑に折れ曲がる道になります。これも安土城と酷似。同じ小牧山の山中と言えども、主郭とそれ以外の曲輪を明確に区別していたように見受けられます。

もしくは信長の発想は山全体が城というよりも、「山頂だけが城で、残りの山の部分は城下町の延長」だった可能性も考えられますね。

日当たりの良い南側斜面は、高級住宅地のような山の手気分。そう考えると信長は、なかなかのデベロッパーぶりを発揮しています。

ここで小牧山城の誤解を一つ解いておきましょう。

小牧山城が美濃の稲葉山城攻略に備えて築城されたというような説明がネット上では散見されますが、築城を開始した当時の状況や城の位置を考えると、小牧山城は犬山城攻略の拠点と見るべきです。

もちろん稲葉山城も見据える位置にはありますが、犬山城とその支城ネットワークを破らないと稲葉山城どころか木曽川にもたどり着けません。

当面の敵は織田信清なのです。

 

そして戦わずして勝つ! 小牧山城の存在感

犬山城の支城の一つであり、信清にとっては信長との境目の城に「小口城」という平城があります。

この小口城は、小牧山城が築城される前に信長と小姓衆からの力攻めを受けています。城主の中嶋備後守は散々に崩されるも何とか城を死守。しかし小牧山城が完成すると、丹羽五郎左衛門長秀の調略によって信長に降伏します。

一説によると、小牧山城の石垣の威容と信長本隊が大挙して近所に引っ越してきたことに圧倒され、降伏を決めたと言われています。

同じく織田信清の家臣・和田新助が城主だった「黒田城」も、丹羽五郎左衛門長秀の調略により信長方に寝返っており、これで犬山城の支城ネットワークはズタズタに引き裂かれてしまいました。

特筆すべきは信長のこの時期から硬軟おり混ぜての攻略が見事なことです。

小牧山城築城の自信がなせるワザなのでしょうか。少なくとも、もう濃尾平野の片隅で敵の攻撃をおそれて力攻めの先制攻撃を仕掛ける必要はなくなりました。そういった心境や戦略の変化をもたらすものがこの小牧山城にはあったのでしょう。

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残るは犬山城のみ。犬山城を落とすにはセットで鵜沼城、伊木山城も落とす必要があります。これは同時に美濃に橋頭堡を築くことになります/©2015Google,ZENRIN

信長は、城で相手の戦意を萎えさせるという効力を小口城の降伏開城で初めて実感しました。特に調略だけで織田信清の支城を攻略し、犬山城を裸にした戦略は、この後の美濃攻略戦にも活かされます。

この時期には丹羽長秀だけでなく、木下藤吉郎が木曽川一帯を管理する川並衆(蜂須賀、前野など)を味方に率い入れるという活躍も「武功夜話」に記されています。

【武功夜話】は墨俣一夜城と同じく、かなり物語色が強いので(怪しげな記載も多いので)注意が必要ですが、この時期に木曽川の荒くれ者、おっと、私的管理者である川並衆を味方につけるというのは、戦略的にも大いにあり得ることだと考えます。

織田信清の利権を脅かしつつ犬山城を包囲、なおかつ木曽川対岸の美濃側に適当な橋頭堡を構築するのに彼らの存在は大いに役立つからです。

残念ながら木下藤吉郎が直接関わったかどうかは不明ですし、川並衆の存在すら不明です。

が、その後、木曽川の対岸、犬山城からほど近い小山の【伊木山の砦】占拠に成功したのは木下藤吉郎(豊臣秀吉)。

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美濃攻めの橋頭堡を美濃国内に築くというのはかなり大きな功績でした。

この事実にいろいろな尾ひれがついて、川並衆の活躍や一夜城の話ができあがったのかもしれませんね。

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