絵・小久ヒロ

武田・上杉家

武田勝頼37年の生涯をスッキリ解説!風林火山を使えぬ悲劇が武田家崩壊を招く

いかんせん両軍の規模は莫大です。
万単位であることは容易に推定。

単に推定ではなく、確定した損害もあります。
以下は、この戦いで敗死した、名だたる家臣や将たちです。

【甲斐】
土屋昌続
武田信実
甘利信康
米倉丹後守

【信濃】
馬場信春
市川昌房
香坂源五郎
望月信永

【上野原・西上野】
内藤昌秀
真田信綱
真田昌輝
安中景繁
和田業繁

【駿河】
山県昌景
原昌胤
土屋貞綱

【足軽大将】
三枝昌貞
横田康景
山本管助(二代目)

戦争の結果とは、死者数だけでは判断できません。
【将・指揮官の死】に注目してみますと、この戦いの被害がいかに甚大だったかご理解できるはず。

例えばナポレオン第一帝制における斜陽は、1809年とされることが多いですが、この年、帝国元帥の一人であり、勇者と名高いジャン・ランヌ元帥が「アスペルン・エスリンクの戦い」において戦死しておりました。

元帥は、軍制における華であり、頂点の象徴が失われるということ。
それは制度崩壊に直結するとみなされます。

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日露戦争でも、日本は辛勝していながら前線に立っていた下士官クラスの損害は膨大なものでした。
これはのちに日本軍にも暗い影を落とすことに繋がっていきます。

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第一次世界大戦におけるイギリス軍では、士官となった貴族子弟が多数犠牲になりました。
結果、貴族制度が大変革を迎えているほどです。

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こうしたケースを踏まえて「長篠の戦い」死傷者の内訳を確認してみますと、武田は士官にあたる将の死傷があまりに膨大でした。

【兵士の死以上に、士官や将の死の場合は制度の疲弊や崩壊を招きかねない】

「長篠の合戦」における経過や勝因の決定打は不明です。
はっきりとわかっていることは、これが武田家の柱石をなぎ倒した――もはや引き返せぬ大敗北であったことは確実。

余波は、同盟相手にも及びました。

織田勢は武田についた岩村城を攻め立てます。
敗戦から回復できていない武田家の援軍は、年少者や還俗させた僧侶によるもので、頼りにならないものでした。

岩村城跡

武田についていた岩村城の城主であったおつやの方は敗北し、甥である信長によって処刑されています。

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そしてこの一件は、単なる一つの悲劇では済みませんでした。

戦国大名の働きとは、同盟相手の保護にあります。
味方を守る力がなければ仲間内から見限られ、その信頼は簡単には回復できないものです。

勝頼当主の武田家は、信玄の服喪が終わった三年目にして、亀裂が生じておりました。

 

戦後処理からの立て直しをはかる

前述の通り、将の死は体制の崩壊そのもの。
再度立て直すのが急務であり、勝頼は、後継者を失った多くの家の編成に着手しました。

一例として挙げられるのが、嫡男・信綱と、二男・昌輝を失った真田家でしょう。

信濃の有力国衆の一つである真田家では、三男・昌幸を武藤家から戻し、継がせることで保たれました。
しかし、そう単純な話でもなかったのです。

確かに真田家は元に戻りましたが、武田家にしてみれば武藤家を失ったということになります。
しかも、将棋の駒を並べるように単純なものではなく、心情的な理解やフォローも大切となってきます。

本来なら昌幸は、甥が成人するまで一時的な代理として統治するはずでした。
それをさしおいて真田家を継がせるということは、勝頼自身が予定のなかった武田家跡継ぎで苦労したように、昌幸にとっても大変なことなのです。

その点を気遣ってか。
真田昌幸は、自身の嫡男・信幸の正室に、真田信綱の娘である姪の清音院殿を迎えています。
こうしておけば孫の代で、本来の嫡流・信綱の血を引くことになるわけです。

家伝文書も継承せず、信綱の遺児に相続させました。
後に「表裏比興の者」として徳川や北条をさんざん振り回した昌幸ですら、ここまで苦労しているのです。

当時の武田家中にはそんな例がいくつもありました。
一番、心労をすり減らしたのは、勝頼だったことは間違いないでしょう。

やることはまさに山積み。

・家臣の相続管理

・軍団再編成

・外交関係の立て直し

・信玄の本葬儀

・領内における寺社仏閣の管理、祭礼

・金山枯渇対応、商人の保護

家中を引き締めつつ、経済、政治、外交を回し続けなければならないのですから、かなりムチャな話でもあります。

天正5年(1577年)には、「甲相同盟」のもとで、北条氏康の女(むすめ)・桂林院殿が勝頼正室として嫁いで来ます。

桂林院殿/wikipediaより引用

勝頼の領国経営は、試練にさらされ、厳しいものではありました。
それでもまだ「甲相同盟」は保たれていたのです。

しかし、これまた崩壊へ……。
その契機は、上杉家からもたらされたのでした。

 

北条と上杉のはざまで

後継者の選定が難しいことは、何も武田家だけではありません。
かつて武田信玄のライバルだった上杉謙信の越後でも、跡継ぎをめぐって家中が真っ二つに分かれました。

いわゆる【御館の乱】と呼ばれる御家騒動です。

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「(女性を放棄し)不犯を貫いた君主」というものは、高潔であっても大迷惑であることは、世界史の例でも示されています。

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世界史では、不犯君主の家が滅びてしまうものですが、日本の戦国時代は隣の家にも災厄がふりかかったりします。

天正6年(1578年)、上杉謙信が急死。

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確かにこの3年前、謙信は甥の上杉景勝を後継者として指名おりました。
ところが、それ以前に北条氏出身の養子・上杉景虎も迎えています。

ここから内乱が勃発するのです。

勝頼は戸惑いました。
謙信と和睦し、「織田包囲網」を形成しながら反転攻勢を狙っていた最中のこと。まったく予想外の出来ごとであったのです。
もしも謙信が病臥するなりしていたらば、また違ってはいたのでしょう。

北条氏政は別の敵に手一杯であり、実弟・上杉景虎の支援を武田に依頼します。
勝頼も、はじめのうちこそ景虎支援でした。「織田包囲網」を作るのであれば、北条との同盟は欠かせません。

ところが、上杉家の騒動が長引くと、いよいよ織田包囲網が機能しなくなる。

どうすべきか?
上杉と北条のパワーバランスを考えても、難しいものがあります。

景虎が勝利して上杉家と結びついたらば、上杉と北条の同盟は強固なものとなります。
それが武田にとってよいことなのか?
かといって景勝が勝利すれば、武田と北条の同盟破棄は免れません。

上杉景勝/wikipediaより引用

勝頼の出した答えは、どちらでもない【中立】でした。

・上野領の分割
・黄金500両贈答
・勝頼の妹である菊姫と景勝の婚儀

この条件で、講和の仲介をするとしたわけです。

勝頼は北条側に動きを悟られないようにしながら、和睦を進めようとします。
北条側にはあくまで景虎支援、それでいながら景勝には和睦と言い張り、ことを進めねばならない。胃が痛くなりそうな話です。

さらにここで、最悪のタイミングで厄介な事態が起こります。

北条側と領地を接している真田昌幸が、沼田城攻撃の動きを見せ始めたのです。

なんせ北条側が景虎支援に乗り出した直後のことです。
厳重抗議をしてきました。

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薄氷を踏むような出馬を経て、講和が成立しかけたものの、そう簡単にうまくはいかない。
この好機を徳川家がつき、勝頼は対処を迫られます。

景勝と景虎からすれば、こう解釈されてもおかしくないのです。

「武田は和睦交渉を破棄したぞ!」
結果、景勝が勝利し、景虎は自刃へ追い込まれました。

一連の出来事、北条氏政からすればこうなります。

「武田は和睦するといいながら景虎を見捨て、勝手に離脱した。そのうえで上杉と同盟を結ぶとは!しかも真田は我が領土を狙っているではないか」

景勝が勝利すると、武田・上杉の間では同盟=「甲越同盟」が結ばれることとなるのですが、これは想定外のものでした。
北条側は、景虎を見殺しにした勝頼へ強い不信感を抱き、同盟は破棄となります。

当然、パワーバランスも、大きく狂ってしまいます。

内乱で荒廃した上杉家は、謙信時代の力は残されておりません。
これは直江兼続の扱いからも、推察できます。

それまで目立つことのなかった兼続が、シンデレラボーイさながらに引き立てられたのは、才能ゆえだけとは思えません。
景勝体制は、それだけ人員不足であり、育成から始めねばならなかったのです。

景勝&兼続の名コンビというのは、あくまで後世目線であり、当時は頼りない若者二人とみなされていてもおかしくはありません。

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武田が、北条と開戦してまで、上杉と同盟するメリットとは?

想像するだけで暗澹としてくる、難しい展開でした。

 

パワーバランスの再構築

事ここに至り、もはや絶望しか湧いてこない状況ですが、勝頼が何もかも諦めたわけではありません。

彼なりに、立て直しを懸命にはかっていたことは伝わってきます。

北条との対決が不可避となった今、真田昌幸を筆頭として攻めるほかありません。

真田昌幸/wikipediaより引用

上野方面では、昌幸の動きの冴えもあったのか、なかなか順調な戦況を見せております。
斜陽の武田家中で、昌幸だけは元気満々にすら思えてくる、なんだか恐ろしい話ではあります。

戦線だけではなく、外交も重要であり、

・上杉との同盟「甲越同盟」

・佐竹との同盟「甲佐同盟」

このような関係の締結が行われました。

むろん北条側も無策ではなく、徳川との接近が見られます。

天正7年(1579年)から8年にかけて、嫡子・武田信勝の元服が行われたとされます。

これは彼一人のものではなく、彼と同世代の家臣子息たちも同時に元服。
真田昌幸嫡男の真田信幸(後に真田信之)もその一人でした。

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これはただの行事だけではなく、家臣の子息取り込みもはかった【体制固め】という意味合いもあったでしょう。
信勝の生母・龍勝寺殿は信長の養女でもあり、織田との関係改善を狙った意図も感じられます。

勝頼の動きをみていくと、どうにも苦しいものがあります。

家臣との情報共有や、信頼関係に亀裂があったのではないか?と思わせ、そしてその解消に彼が如何に心を砕いていたかも想像できてしまいます。

しかも亀裂の原因は、彼自身のせいではない。
信玄由来のものも含まれていて、どうにも胸が苦しくなってくるのです。

勝頼の内政固めと外交交渉は、とどまりません。

ついには織田信長との和睦をも狙いに入れました。

ここで包囲網を整理しておきましょう。

◆北条包囲網

武田・上杉・佐竹

◆武田包囲網

北条・織田・徳川

◆織田包囲網

武田・上杉・本願寺・毛利

この複雑怪奇な関係の中で、織田と和睦を結ぶこと(=「甲江和与」)は重要です。

佐竹と織田は友好関係にありますので、一応「甲佐同盟」は役立ちそう……というのは、あくまで武田の都合です。
織田としては、和睦をするか、滅ぼすか。
そこが問題です。

織田包囲網の弱体化を、信長が知らないわけもありません。
前述の通り、上杉はパワーダウンをしているのです。

しかし勝頼にはカードがありました。
信長五男・織田信房(御坊丸、勝長でも知られる)です。彼は岩山城主であった遠山氏に養子入りしており、勝頼の元で保護されていたのです。

我が子がかかっているとなれば、必死で取り戻そうとすると考えるのは早計。
信房返還をふまえた和睦に対する信長の対応、かなり高慢なもので、先行きは不安そのものでした。

それだけではありません。
上杉景勝が、相談もなしに何をしているのかと厳重抗議をしてくるのです。その上で織田に上杉からも和睦を申し入れたのでした。

信長は、
「武田も上杉も、どうせポーズだけだろ」
という冷たい対応でした。

それもわからなくもありません。
謙信と信玄時代ならば恐ろしかった敵も、今ではそうではない。信長はそう察知していたのでしょう。

 

「高天神崩れ」

危ういパワーバランスの中、決定的な崩壊が起こったのは天正8年(1580年)3月のことでした。
徳川勢が遠江・高天神城の攻略を始めたのです。

何があっても勝頼は、救援に向かわなければならない状況。
しかし、それができないのです。

・上杉景勝は織田勢との戦闘で手一杯であり、援軍派遣ができない

・4月、本願寺顕如、織田包囲網から離脱

・北条との戦闘が継続中であり、余裕がない

武田・上杉・本願寺による織田包囲網は、見るも無残に綻びており、織田・徳川を止めようがありませんでした。

徳川からすれば、領内に残った高天神城を落とすのであれば、まさしく好機。
勝頼は救援しなければ!と思いつつも、家臣をまとめることができず、彼らを見殺しにするしかありません。

徳川領の遠江で6年間も耐え続けた高天神城。
同城は、9月から翌年5月まで徳川の包囲に耐え続けたものの、結局、陥落してしまいます。

要は、見殺しにされてしまったのでした。

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戦国大名の果たすべき役割には、同盟者の救援も入っています。
しかも非常に大きな役割。
その力すらなく、忠義を見捨てた大名は、もはや仕える価値無しと見放されてしまいます。

国衆が大名に仕えるメリットは、庇護されることであった――それがなくなれば、もはや仕える意味は1ミリもありません。
もはやこれまで……。

諦念と新軌道への模索が、始まっておりました。

 

武田氏滅亡

勝頼は、それでも外交交渉を諦めませんでした。

北条に対抗するため、佐竹との同盟強化を模索。
新府城の建築と移転も、進めました。

この城は、不幸な結末から、狡賢い家臣のアドバイスによる建築とされますが、そこは差し引いて見た方がよいでしょう。
「長篠の戦い」はじめ、変貌したパワーバランスへ対処するためだったと考えた方が良さそうです。

しかし、天正9年(1581年)末から天正10年(1582年)にかけて、い新府城への移転が進められる中、いよいよそれどころではない事態が迫ってきます。

穴山信君(梅雪)は、高天神崩れの戦後処理にあたっていました。

その中で不満を溜め込んだとしても不自然ではなく、実際、穴山信君、曽根昌世らが、内通の動きを見せ始めます。
そんな中、織田信長は木曾義昌の内通交渉を受け、武田攻めの決意を固めるのです。

穴山信君/wikipediaより引用

勝頼は、この討伐に出馬するものの、呼応するように織田信忠が攻め行ってきました。

そのころ浅間山が噴火。
2016年大河ドラマ『真田丸』第一回でも登場した噴火シーンです。

コミカルな演出と、昌幸の人を食った演技に注目が集まりましたが、武田情勢を描く上で大変巧みな描写でした。

・異変に天変地異が重なることで、運命論、天変地異は悪政の報いであるという考え方が伝わる

・武田家宿老の真田昌幸は、もはや武田家はこれまでだと悟った

・昌幸本人の信玄への敬愛は表現されるものの、勝頼に対してはそこまで強くない――君臣間の距離感が示されている

・昌幸はこの時点で北条氏への接触をはかっており、国衆の辛い立場も示される

信長本人は出馬せずとも、嫡子・信忠、同盟者・徳川家康主従の侵攻により、もはや武田家の崩壊は避けられぬ事態でした。

出来上がったばかりの新府城は、火を放たれてしまいます。
人質としてそこにいた家臣の子女をも巻き込み、できたばかりの城は炎の中へと……。

小山田信茂はじめ、多くの家臣が離脱し、孤立する勝頼。
新府城で切腹すべきだという家臣の提言に従わず、勝頼は落ち延びた先の天目山で切腹しました。

妻子、多くの家臣とともに、勝頼は3月11日、自刃したのです。
享年37。

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戦国の雄であった武田家は、なぜかくも滅びてしまったのか?

そんな嘆きだけが、兵どもの夢の跡に残されました。

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今こそ学びたい、勝頼のこと

本稿は、世界史的な例も挙げ、話をやや大きく広げた感はあります。

しかし、敢えてそうした部分もあります。

貶められていた人物の再評価は、世界史単位で今進められているものです。
代表例が、断頭台に散ったこの夫妻でしょう。

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現在フランスでは、国王夫妻の処刑はあやまちだったという意見もあります。
君主としての資質にも問題がなく、むしろ太陽王ことルイ14世、最愛王ことルイ15世よりも名君であったという評価もあるほどです。

このルイ16世も、勝頼と似た部分があります。

・想定外の後継者であった

・家にあったシステム疲弊の弊害を受けた

・重なる不運、本人にとってはどうしようもない要素

・貶められた評価

「君主の器量」だけではなく、「システム疲弊の原因」も併せて考えること。
それが、今後の歴史に求められている見方ではないでしょうか。

勝頼の不運と、本人ですらどうしようもなかった要因は、本稿のここまでで見てきた通りです。
重苦しくなるような内容とはいえ、それだけではない興味深いことも多かったと感じませんか。

「英雄がなぜ成功したのか?」
と、同時に
「システムはなぜ崩壊するのか?」

それを学ぶことも、歴史の面白さであり、意義でもあるのではないか。
勝頼はその絶好の一例である気がしてなりません。

文:小檜山青

【参考】
大河ドラマ『真田丸』DVD(→amazon link
大河ドラマ『真田丸』Blu-ray(→amazon link
『武田勝頼』丸山和洋(→amazon link
『武田勝頼のすべて』芝辻俊六・平山優(→amazon link
『新府城と武田勝頼』網野善彦編(→amazon link
『武田史滅亡』平山優(→amazon link
『武田三代』平山優(→amazon link
『武田信玄』平山優(→amazon link
『戦国大名と国衆』平山優(→amazon link
『全国国衆ガイド』大石泰史編(→amazon link
『戦国時代人物事典』(→amazon link

 



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