武田・上杉家

第一次川中島の戦い~信玄も謙信も【城】中心に動くからこそ

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「人は城、人は石垣……」という言葉の影響からか、お城イメージの薄い武田信玄

戦国最強とも称される武将が重要施設である城砦じょうさいを軽視するワケがなく、

「城は城、石垣は石垣」信玄の城マネジメント能力を見誤るなかれ

武 ...

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上記の記事では、信玄が信濃侵攻へ向け、キッチリとお城マネジメントを手掛けていたと記させていただきました。

今回はその続き。
戦国史に名高い【第一次川中島の戦い(1553年)】を城視点で見て参りましょう。

 

第一次川中島の戦い 北信濃を制するぞ!

まずは
・武田信玄
・北信濃
・上杉謙信
の位置から確認しておきましょう。

甲府の躑躅ヶ崎館を出て、善光寺平(川中島の戦い舞台)に来ると、謙信の越後はもう目と鼻の先。

下から信玄の躑躅ヶ崎館(黄)、北信濃の要衝・善光寺(紫)、謙信の春日山城(赤)と並んでいます。

紫色の善光寺平周辺で、両軍がぶつかったのが川中島の戦い。

川中島の戦いというと、信玄と謙信が一騎討ちしたというエピソードで有名な【第四次川中島の戦い】がまず脳裏をよぎりましょう。
回数については諸説あり、本サイトでは一般的に普及している通算5回で進めます。

それにしても、小競り合い含めて5回も対戦するとは……もちろん当人たちも好き好んで戦ったのではなく、理由は切実なもの。

北信濃が非常に重要なエリアだったんですね。

同地域は10万石の収穫があるとされ、第一次川中島の戦いが起きた1553年当時は善光寺という宗教&商業施設もあり、石高の低い甲斐と越後(当時は米どころではなく40万石程度だったとも)から見れば垂涎の土地でした。

そんな北信濃の中心だったのが川中島。

「川中島を制するものは北信濃を制す」と言えるほどの要衝だったのですが、古今東西、こうした場所には必ず城が築かれます。

すべての城は、そこに建てられた意味があるのです。
特に武田信玄は、積極侵攻策で甲斐から北信濃まで進撃してきており、何が何でもここに城を築きたい。

「影響を及ぼしたい地域に橋頭堡=城を確保」して、その城を境い目の重要防御地点にするのは戦国大名の定石です。

戦国時代のど真ん中、城の基本は
「要害を作って侵されない」
という、100%軍事目的としての城でした。

後世のように権威とか、見せるための要素は薄かったのです。

そして武田信玄は、この川中島を取り巻く地域「善光寺平」に多くの城を確保するため、全力で取り掛かりました。

 

武田め、ついに一線を越えおったな!

同時に上杉謙信の視点から見ておきますと……。

地図をご覧いただいた通り、川中島を含む善光寺平の北にある山々を越えると、そこはもう越後の国。
謙信の本城「春日山城」があります。

つまり上杉謙信にとっての北信濃は、単に収入的な価値だけでなく、本拠地の安全保障上から見ても重要な地域であり、一人でも多くの地元小領主(国人衆)たちを傘下に収めておきたい――。

そんな場所に武田信玄が侵攻してきたのですから、心中穏やかではいられない。

確かにこれまでも武田が信濃に侵入してきたことはあります。
が、村上義清の踏ん張りもあり、北信濃エリアは武田と上杉の【緩衝地帯】として機能していました。

その義清がついに粉砕されると、緩衝地帯は機能しなくなり、下手をすれば謙信は越後の自領を攻撃されてしまいます。
それだけは避けたい。

軍事の基本は、領国に入られる手前で敵を叩くことです。
ゆえに謙信も、毘沙門天のお告げを聞くまでもなく即出撃するしかありません。

現代も、大国同士が隣接すると大きな戦争に発展してしまうため、緩衝地帯のような国を挟み、とりあえずの平和を維持することがあります。

冷戦時代は西欧諸国とソ連の間に東欧諸国があったり、昨今では緩衝地帯として機能していたウクライナがEUに寄り過ぎてしまった結果、ロシアが一線交えてでも取り込んだり。
古今東西どこでも起こりうる安全保障の考え方であります。

そんな北信濃の緩衝地帯に武田家が侵入してきたら、謙信だって

「ついに一線を越えおったな!」

「いざ、出陣!」

と、ならざるを得ない。

両者がぶつかるのは必然でもありました。

 

川中島の戦いって実は【城取り合戦】なんすよね

川中島の戦い――。
というと、だだっ広い平野で両軍が激突というイメージが非常に強いですよね。

しかし、結論から申しますとそうではありません。

乱暴を承知で言えば、川中島の戦いは【城取り合戦】であり、敵の城(拠点=橋頭堡)を潰し合うものです。

「え? 川中島の城って海津城だけでは?」と思ったりします?

残念ながらそれは誤解です。

もちろん海津城も非常に重要な拠点でありますが、これも川中島に数ある城の一つに過ぎません。
周囲にはまさに要塞と呼べるべき城が乱立していたのです。

以下の地図にサッと目を通してみてください。

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善光寺平全景。主な城をマークしております。お城だらけです/©2014Google,ZENRIN

詳細は後ほど解説しますので、ここでは軽く「めっちゃあるやん!」程度で認識していただいて問題ありません。
ともかく思った以上にお城が乱立していると思いませんか?

これを念頭に入れるか入れないかで、川中島の戦いの面白さが俄然変わってきます。

以降、
「最前線の城とは何か?」
という点を意識して見ていきましょう。

※川中島の戦い当時、信玄は武田晴信、謙信は長尾景虎、その後、輝虎とか色々と変わりますが、便宜上、信玄、謙信で話を進めます

 

葛尾城と荒砥城を落としたら

では、話を進めましょう。

武田信玄が初めて北信濃にやって来た時、一体どのような一手、つまり橋頭堡を築こうとしたのか?

実は信玄は、橋頭堡を築いてはおりません。

「おい! いきなり話が違うじゃねえか! 信玄の城の話じゃないんかよ!」
と罵倒されても無いものは出てきません。

橋頭堡は一度築けば何が何でも死守が基本。
コストもかかるし、良くも悪くも精神的な支柱にもなるため、おいそれとはスクラップアンドビルドできません。

1553年に始まった第一次川中島の戦いで信玄は、そのような形跡がないほどあっさりと兵を引いています。
謙信との直接対決は行っていないんですね。

ということで、ここはもう少し戦いの経緯を見ていきましょう。

信玄は、「葛尾城」に籠もる村上義清を猛攻の末、越後に追いやった後、葛尾城の支城「荒砥城」にも猛攻を加えて落城させます。

葛尾城と荒砥城は川中島のかなり南にあり、以下の地図でいえば中央に2つ並んでいる赤い拠点です。

お城野郎ワンダーキャッスルジャパン20141116-3

こちらの地図では中央に位置する葛尾城と荒砥城・川中島から離れている/©2014Google,ZENRIN

ここを「猛攻」した――つまり力任せによる城攻めでした。

※武田流の城攻めの一つに「放火」「焼き討ち」という言葉そのまんまの攻城戦術があります

城を攻めるときのセオリーは、敵の後詰め(救援)が来ないと判断したら「守備側の士気は低い! 一気に叩け!」となります。

基本的に、莫大な兵力と物資が必要となる城攻めは、兵数が城方よりも圧倒的に勝っているなどの勝算がないと行えません。
ましてや武田信玄のような慎重派なら尚更です。

では葛尾城の場合はどうだった?

後詰めの上杉謙信が間に合わないと判断したのか。
あるいは謙信のやってくる予定日を逆算して計画的に猛攻したのか。

信玄がいかなる判断をしたかは不明ですが、結果的に謙信の救援は間に合わず、武田が葛尾城を攻め落とし、村上義清は越後に逃げて行きました。

ちなみにこの「荒砥城」は現在「城山史跡公園」として整備され、中世の城郭を忠実かつマニアックに再現。

城マニアの妄想が具現化されたような公園になっていて、オススメです。

 

義清に再び城を取られて

信玄はその後、善光寺平への侵入を試みます。
が、電光石火でやってきた上杉勢に「更級・八幡」の地で敗れます。

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更級・八幡の戦い 武田_勢進軍ルート/©2014Google,ZENRIN

上記の地図で見ますと、青い進軍経路で北上し、緑のポイント「更科八幡の戦い」で敗北するのです。

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謙信登場!

用心深い信玄のことです。
小競り合い程度の戦いで、善光寺のはるか南の地での敗戦ということもあり、この時点で本気で善光寺平まで一気に侵攻しようと考えていなかったのかもしれません。
じっくりと時間をかけ、善光寺平の国人衆たちを調略しながら兵を進めるつもりだったのでしょう。

結果、先ほど勝ち取った葛尾城と荒砥城は上杉勢に奪われて再度、村上義清が入城しました。これが……。
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