武田・上杉家 川中島の戦い

第四次川中島の戦い 展開のカギを握るのは城戦略だった【戦国頂上決戦譚】

戦国期の頂上決戦と言えば、皆様、どの戦いを頭に浮かべるでしょう?

信長ファンでしたら
桶狭間の戦い
長篠の戦い
あたりを思い浮かべるでしょうし、豊臣秀吉ファンであれば
山崎の戦い
小牧・長久手の戦い
小田原征伐
など。
徳川家康好きなら
【関ヶ原の戦い】
大坂の陣
あたりが候補となりましょうか。

歴史的意義を考えれば、上記のいずれか一つが戦国期の頂上決戦に選ばれてもおかしくありません。

しかし!

戦国ロマンを重視して一つ挙げるとすれば?
第四次川中島の戦い】も候補の一つに数えても良いのではないでしょうか。

とにかくその特徴がアツい!

武田信玄と上杉謙信が真正面から激突

・計5回行われたという川中島の戦いの中で最も激しかった

・両軍の死傷者も相当な数にのぼる

・信玄にせよ謙信にせよ「城」をめぐって緻密な戦術が張り巡らされていた

「人は城、人は石垣、人は堀」なんて言葉があるせいか。
信玄は「城に興味がない」なんて思われたりしますが、そんなことは1ミリもなく、むしろ川中島の戦いは城の奪い合いです!

というか【すべての合戦は城(領地)の奪い合い】が大前提であり、一見、城とは関係のないように見える戦いでも、数多の城が密接に関わっているものです。

それは第一次~第三次川中島の戦いについても同様のことが当てはまり、以下の記事でご確認いただくとして、

第一次川中島の戦い~信玄も謙信も【城】中心に動くからこそ

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第二次川中島の戦い たった一つの山城(旭山城)が戦の趨勢を左右した

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第三次川中島の戦い 全貌がわかる! 真田の調略と信玄の緻密な戦術が凄まじい

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ともかく今回は第四次川中島の戦いを振り返ってみましょう。

 

善光寺平の統治者として政治的支配を進める信玄

まずは前回の「第三次川中島の戦い」から簡単におさらいさせてください。

信玄と謙信の戦いは、力が拮抗しており、両者、詰め将棋のような緻密な攻防を続けたため、派手さからは遠い展開となっておりました。

信玄が調略しまくる

謙信ガマン
↓↓
信玄調略しまくる

謙信キレる
↓↓
信玄逃げる

謙信全力で追う
↓↓
信玄全力で逃げる

謙信オトナの対応であきらめる
↓↓
信玄戻ってきてまたちょっかい出す

謙信待ち構えていて撃退
↓↓
信玄逃げる

第三次川中島の戦い 全貌がわかる! 真田の調略と信玄の緻密な戦術が凄まじい

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そう簡単に全面戦争とはならないんですね。

ただし、双方、ヤル気がなかったワケじゃなく、【第三次川中島の戦い】で信玄は、和睦の条件として、風前のともしびの足利幕府に掛け合い「信濃守」の称号を購入……おっと、手に入れました。

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善光寺本堂。善光寺平の政治経済の中心地で、古くから善光寺の支配権を巡って多くの争いがありました

「自称も可能な名ばかりの役職」でおなじみの守護職ですが、「将軍様に信濃守護職頂いちゃいました~」と自慢してみたり、「信濃は俺様の領土!」とゴーマンかましてみたり。

北信濃の国人衆に対してだけでなく、国内外に広く宣伝しまくって「なんか武田さんちの信濃が上杉に侵略されてるらしいよ」というステマの垂れ流しに「信濃守」の称号を存分に活用していたのです。

このように武田信玄は善光寺平の新しい統治者としての政治的支配も着々と進めておりました。

では軍事的支配は、どのように発展させたのでしょうか?

 

第四次川中島の戦い 直前の様相は?

これまで武田家では
「謙信の留守を狙え!」
という大戦略を重視して、謙信が北からやってきたら遥か南へ退却という戦略を取っていました。

ところが、第三次川中島の戦いでは謙信の大掛かりな逆襲に遭ってしまい、北信濃の諸城に予想外の損害を受けてしまいます。

また、謙信が来たら退却という戦略も一部の武田方の武将にはいささか納得がいかなかったようで。

「士気が落ちる」
「戦わせろ!」
「それでも男ですか!軟弱者!」
「ザクとは違うのだよ、ザクとは!」
おっと、いつのまにかガンダム名言集に……要は、戦いたくてウズウズしている武将がちらほら出てきたのです。

もちろん武田信玄自身は兵力の温存こそが最大の勝機であることは分かっています。

一方で少し下に見ていた上杉謙信が【関東管領】に就任し、「関東切り取り次第」というお墨付きを得たことに対しての焦りも徐々にでてきていました。

 

海津城はスターウォーズに出てきた巨大な球体だ

こうした情勢の中。

最前線支援の単なる補給地点という目的だけでなく、善光寺平の新しい政治的および軍事的統治のシンボルとして海津城が築城されます。

松代城址に残る海津城の碑

「政治的および軍事的統治のシンボル」

という要件を満たすには川中島の要衝に位置し、なおかつ恒久的なものでなくてはなりません。

海津城を名実ともに政治的拠点にするには、信玄に近い譜代の家臣を置き、武田家直轄の城にしなくてはならないんですね。

このような方針は、信玄にはすでに実績がありました。現在の松本市一帯を支配下に入れたとき、深志城を築城していたのです。

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おなじみの松本城。この場所に「深志城」がありました

今では面影は残っておりませんが、現存の松本城の場所に築城され、町割りまで新たに施した「平城」だったようです。

平城は、織田、豊臣、徳川時代のものでもなければ、戦国後期のものでもなかったんですね。すでにこの時代からありました。

 

松代地方そのものが天然の要塞だった

通常、政治的支配を目論むための城ならば、川中島を通る「北国街道」を押さえる場所か、善光寺付近に城を構えるのが適しているでしょう。

しかし依然として国境線は犀川であり、川中島のど真ん中に城を築く危険はおかせません。
そこで信玄が選んだ地は、北国街道の脇街道が通る松代方面の平野部でした。

犀川はよく氾濫したようで、脇街道といっても人や物資の往来は海津城築城以前からこの地方で頻繁に使われていたことが推察されます。

また、この地域には以前から東条氏、寺尾氏、清野氏、香坂氏など、複数の北信濃国人衆が館を構えていましたので、ある程度の町が既にあったでしょう。
城を築いて武田の政庁を置くにはうってつけの場所だったのです。

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海津城全景。松代地方は雨飾城や鞍骨城も含む巨大な複合城郭ともいえます/©2015Google,ZENRIN

そして今回の海津城も「平城」です。

しかし海津城周辺の地図を見れば、平城といっても一目瞭然の要害なのがお分かり頂けるでしょうか。三方を高い山に囲まれて、しかも山々には雨飾城や鞍骨城といった堅城を外郭とし、開けた方面には千曲川が攻城側の行く手を遮るのです。

山に囲まれた平野部には町割りに適度な広さを得られます。
さらに裏山からの峠越えで、小県郡の真田本城方面につながる補給と後詰めのルートがあり、袋のネズミになる心配もありません。

このように海津城――というより松代地方そのものが天然の要塞であり、政治、ビジネス、人々の生活、そして軍事まですべてを備えた巨大な要塞、まさに「デス・スター」となっていたのです。

ちなみに戦時中も、この地に本土決戦の最後の拠点を建設しています。
興味のある方は「松代大本営跡」でググってみましょう。

 

海津城 名前の由来は山本勘助?

海津城は「海のような千曲川」に沿って築城されたことから「海津」と命名されたと言われています。

また山本勘助の築城図「甲斐図」から命名されたとも言われ、城名の由来には諸説あります。

いずれにしろ築城当時は千曲川の流れを海津城の堀として利用した川沿いの「平城」であったこと。
また築城には山本勘助が関わっていたことが分かります。

現在は江戸時代の真田家の松代藩時代を経て「松代城」として整備が進み、千曲川の流れも変わってしまって戦国時代の「海津城」の趣きは全くありません。

しかし山城ばかりの善光寺平の一角に平城がぽつりと立っている不自然さ、そし海津城を中心に町割りをして新都市を建設を目論んだ計画的な築城だったことに海津城の魅力があり、夢の新都市構想の妄想も広がるのです。

 

武田流築城術で重要な縄張り「丸馬出」

さて海津城の構造ですが、武田流築城術で重要な縄張りの一つ「丸馬出まるうまだし」の存在が確認されています。

「丸馬出」については以前に書きましたように、前面で防衛しつつ両脇から攻撃も繰り出せるという、敵の優勢な攻撃が予想される地点に配置するには持ってこいの防御施設です。

しかし、海津城はもっと大きな規模で見なくては城の本質を、そして諸説ありまくりな第四次川中島の戦いの行方さえも見誤ってしまいます。

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松前城の想像図。千曲川を背にした向きは海津城時代と同じです。手前に丸馬出の名残り「三日月堀(みかづきぼり)」が見えます

海津城築城当時は千曲川を天然の水堀として川に沿って築城しました。

ゆえに海津城の大手門は千曲川の反対側、川中島の平野に対して背を向けて築城されています。これは後の松代城でも同じです。

つまり川中島方面に軍勢を出撃させるには城の脇をくるっと旋回させ、数カ所ある千曲川の渡しを通過して川中島に出ることになります。

これは新府城の丸馬出です。前面の三日月堀は廃墟になっても残っています

これは新府城の丸馬出です。前面の三日月堀は廃墟になっても残っています

勘のいい城マニアならもうお気づきでしょう。
そうです、海津城そのものが「馬出」の構造なのです。

山に囲まれた松代の町を一つの巨大な城塞と考えると海津城は一つの曲輪「馬出」でしかないのです。

真偽が未だ定まらない『甲陽軍鑑』において山本勘助が「馬出」について力説する場面があります。

海津城を設計したのは山本勘助とも言われていますが、これも諸説あります。
海津城は「香坂城」を改修しただけという説もあります。

いずれにせよ山本勘助が海津城という巨大な馬出しの考案に関わったことは間違いないでしょう。

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上杉の想定侵攻ルート(紫線)に対する海津城の支城ネットワーク(赤線)と後詰めルート(青線)/©2015Google,ZENRIN

 

海津城を本城とし、大堀館や横田城など複数の支城が防衛戦戦を支える

次に軍事戦略の観点から海津城を見てみましょう。

この海津城を本城として武田信玄は境目の城を支城としてそのネットワークに取り込みます。

川中島のはるか北東、千曲川西岸の長沼城を突出した最前線の橋頭堡として活用。
この長沼城は第三次川中島の戦いにも出てきましたが、千曲川の渡しを管理している城で、ここを通って野尻湖方面に向かうともうそこは越後です。また飯山城方面への押さえとしても機能しました。

一方、依然として国境線である犀川の南部、川中島一帯には第二次川中島の戦いで信玄の本陣となった「大堀館」や「広田城」、「横田城」という陣所レベルの小規模な城が犀川の最前線として、また塩崎城や南方の真田本城方面は後詰めのルートとして、海津城を取り囲むように機能していました。

このように信玄は犀川方面では北国街道を川中島の支城で押さえ、北国脇街道は長沼城から雨飾城にかけて複数の城で押さえます。

これらの本城、大規模な支援基地として海津城を新たに加えたのです。

 

桶狭間で今が義元が討たれ翌年、謙信が関東管領に

「海津城ができれば、ようやく両軍激突ですね! さっさとお願いしますよ!」

と進む前に、我々はこの戦いの直前に起こった戦国時代の2つのビッグイベントを知っておかなければなりません。

1つは永禄3年(1560年)5月の【桶狭間の戦い】。
武田信玄の盟友・今川義元織田信長に討たれました。

桶狭間の戦い 信長は奇襲していない?戦国初心者も超わかる信長公記36話

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そしてもう1つが西暦永禄4年(1561年)閏3月、上杉謙信の関東管領就任です。

第四次川中島の戦いはその後の永禄4年(1561年)9月に起こります。

何を言いたいのか?
と申しますと、武田・上杉両雄の関心は、すでに北信濃にはなかったということです……って、えええっ!

武田信玄の信濃戦略は、三国同盟によって南の駿河と東の関東地方を安全圏にして北上していきました。
ところが今川義元が討たれたことにより、今川家とその領国である駿河、遠江、三河の3カ国が不安定になってしまいます。

他人のお家の不安定が何より大好き!
それをエサに北信濃を調略しまくった我らが信玄公が、駿遠三(静岡~愛知)の動揺に無関心でいられるはずがありません。

「これはイケる!」と判断したのは間違いないでしょう。

もちろん、その後、今川家から独立した松平元康(家康)が尾張の織田信長と同盟を結んだ事実もつかんでいます。
これは三河の松平が西側の尾張ではなく、反転して「(東側の)遠江を狙狙っちゃうよ!」と宣言しているようなものです。

 

北信濃での存在感は「目的」から「手段」に変遷していった

このボーナスステージに乗り遅れてたまるかと考えるのが我らが信玄公です。

「俺様って実は寒いのニガテなのよ」と言ったかどうかは分かりませんが、この時期に武田家の積極侵攻策を北から南に方針転換をしたのは間違いありません。
つまりもうこれ以上、越後を目指して北進する理由もなければ野望もなくなったのです。

今回の海津城を中心とした支城ネットワークをもう一度ご覧ください。

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上杉の想定侵攻ルート(紫線)に対する海津城の支城ネットワーク(赤線)と後詰めルート(青線)/©2015Google,ZENRIN

長沼城を突出させて越後方面の橋頭堡にしていますが、これはむしろ千曲川渡河の管理に重きを置いていて、いざというとき籠城戦が可能な山城でもありません。

第二次川中島の戦いで旭山城を奪取したように、敵地のいやらしいところに橋頭堡を築く「攻めの姿勢」は見せておらず、今回の信玄は完全に守りに入っているのです。

一方、上杉謙信にも転機が訪れます。

北条氏康に追われ、かねてより越後で庇護していた上杉憲政から関東管領の職を譲り受けます。
これはイコール関東の統治を足利幕府によって許された、すなわち「直ちに関東を平定せよ。YOU、北条を討っちゃいなYO!」ということでもあります。

上杉謙信も既に関心は関東平野へと傾いていたのです。

このような状況で北信濃の戦略変更は両雄にとって必然でした。

善光寺平への関心は、敵を排除して支配下に置くという当初の「目的」から、主戦略の目的(武田=駿河。上杉=関東)を早期に達成するための「手段」の1つ、すなわちお互いに「自陣の後背地を固める」戦略に変わっていきます。

信玄は侵入者を排除してこの地域に武田家の政治的安定をもたらすこと、そして謙信は相手に手痛い一撃を与えて越後侵入の代償が高くつくことを思い知らせることです。

 

第四次川中島の戦いは割ヶ嶽城での攻城戦から

上杉謙信は幕府から関東管領の内示をもらい、上杉憲政を担いで関東に出兵して行きます。

北条氏康配下の関東諸城を攻略しつつ、関東の国人衆が次々と謙信の下へ加わり、軍勢は10万まで膨らんだと言われています。しまいには相模まで侵入して小田原城を包囲。もう完全に祭り状態です。

最大の目的は鎌倉の鶴岡八幡宮で関東管領就任の儀式だったようですが、北条氏康もたまらず、今川家と武田家に加勢を求めます。さすがの武田信玄も謙信の大軍勢に焦りを覚えたか、上野国方面(群馬県)に兵を出して北条氏康に加勢、同時に川中島から越後の春日山城方面へ伺う動きを見せて遠征先で祭り状態の上杉謙信に揺さぶりを掛けます。

前年の今川義元に続き、ここで北条氏康までも亡き者になってしまっては信玄の戦略は根本的に崩れてしまいますので、守りに入りかけた信玄は謙信を関東より撤退させるため、全力で越後国境を脅かす動きを見せます。それが割ケ嶽城(わりがだけじょう)の攻城です。

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割ケ嶽城は野尻湖方面と飯山城方面を結ぶ要衝に位置する山城です。この割ケ嶽城を奪われると飯山城が孤立するばかりか、野尻湖方面から一直線に春日山城まで侵攻できます/©2015Google,ZENRIN

この割ケ嶽城を武田方が陥落させます。詳しい記録は残っていませんが、そこまでして欲しかったかというほどの激戦だったようです。

これで今回も越後国中に警戒警報が鳴り響きます。上杉謙信は関心が関東に行ってしまったとはいえ、前回果たせなかった武田信玄との決戦の必要性を感じざるを得なかったでしょう。祭り状態から覚めた謙信は越後に戻り、川中島での戦の準備に取り掛かります。

最近では上杉謙信の妻女山布陣や啄木鳥の戦法、武田信玄の茶臼山布陣や一騎打ちなどが否定され、予期しなかった遭遇戦だったとも言われて、もう何を頼りにしていいのか分からないのが第四次川中島の戦いを取り巻く現状です。
私の妄想も振り回されっぱなしです。

ただ武田家の副将ともいうべき武田信繁や重臣の諸角豊後守など。
これまでにない譜代クラスの武将が戦死しているのは事実で、両軍の激戦があったことだけは間違いないでしょう。

まとめるのに非常に困るのですが、ここはもう城に徹して解説していきましょう。攻城戦のセオリーだけを追ってみても結構見えてきますよ。

 

上杉軍の妻女山布陣 実はセオリー通りだった!?

上杉謙信の「妻女山(斎場山)布陣」説によると、越後を出陣した謙信は割ケ嶽城を奪取後、善光寺方面、横山城や旭山城に予備兵を割きつつ、陥落させた長沼城付近で千曲川を渡ります。

どうも北国街道の脇街道を進軍したようです。

そしてそのまま南下して雨飾城の脇の峠を越えて松代方面に侵入し、海津城の大手門をかすめるように通過して妻女山に向かったとされています。

海津城代の高坂弾正昌信は上杉の大軍を見て反撃よりも海津城籠城を選びます。

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上杉謙信侵攻ルート(妻女山布陣説)/©2015Google,ZENRIN

謙信の妻女山布陣については「敵地奥深くに、しかも妻女山というたいして高くない山に本陣を構えるなんて血迷っている」、「あったとしても謙信の天才的なひらめきがなんちゃら~」とちょっとあり得ないとか、クレイジーな天才肌のように言われています。

が、海津城の位置やその他の支城や補給のネットワークを考えれば、妻女山布陣は、血迷ったどころか、天才的ひらめきでもなく、一般的な攻城戦術の一つ「付け城」戦術に該当します。

ただし理にかなっているとはいえ、妻女山という敵地のど真ん中に布陣するほどの大胆な計画と勇気ある実行力は、やはり上杉謙信でなればできなかったでしょう。

 

妻女山に布陣していれば、必ず後詰めの武田本隊がやってくる

上杉謙信の戦いの目的は武田本隊との決戦です。

その決戦を導くために海津城を兵糧攻め(の体で布陣)したというのは戦術的には十分あり得る布陣です。

今までの城郭戦では上杉謙信がやって来ると武田本隊は右翼も左翼も撤退し、後詰めの気配は一切見せませんでした。しかし、今回この海津城には武田の直臣にして元カレ……おっと、高坂弾正昌信(春日虎綱)が城代で入っています。

武田信玄の能力が抜群のため、つい忘れられがちですが、戦国時代の大名家は武田家も上杉家も、評定で親戚衆や譜代家臣の同意がなければ何もできません。

武田家を共に運営する家老格の一人を見捨てて後詰めしないなんてことは、この時代の政治的にも戦略的にも常識的にありえません。

妻女山に布陣していれば、必ず後詰めの武田本隊がやってきます。
上杉謙信はそれを叩けばいいのです。

一見、完璧に見える海津城を中心とした巨大要塞の欠点はこの「武田家直轄の城」という城の性格にあったのです。

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謙信は海津城をスルー!後ろの山は雨飾城

実際、謙信は海津城の正面まで来て、攻撃も仕掛けずに城の正面を通過して妻女山に向かっていっています。
おそらく海津城を本気で叩きたければ、武田の後詰めが来る前に攻城戦に移るほうが得策ですし、兵力差から行ってもできたでしょう。

しかし謙信は後詰めのルートを押さえる方を選びました。というのも……。
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