木曾義昌/wikipediaより引用

武田・上杉家 れきしクン

木曽義昌~武田を裏切り最後は海辺で生涯終える!?【戦国表裏比興譚】

どうも!
れきしクンこと、長谷川ヨシテルでございます。

一般的にはマイナーながら、ある地域では絶大な支持を受ける戦国武将を紹介させていただき、これまで以下のようなラインナップとなっております!

今回ピックアップいたしますのは、千葉県旭市からのエントリー。
木曽義昌」さんです!

木曽義昌像

 

木曽義昌と海 まるでイメージ湧かないが……

戦国時代好きの方が“木曽義昌”と聞くと

「信濃国の木曽(長野県木曽町)を領地とした武田信玄の重臣&娘婿」

をイメージする方が多いと思われます。

しかし、私がご紹介したい木曽義昌さんゆかりの地は太平洋にほど近い千葉県の旭市!

なんて偉そうに前書きを書いていますが、山国の印象が強い木曽義昌さんがまさか海に近い千葉県と繋がりが深いとは昨年まで知りませんでした……。お恥ずかしい!

その事実を知ったキッカケは松尾城というお城です。
拙著新刊『ヘンテコ城めぐり』でも取り上げさせていただいたのですが、明治時代初期に太田道灌の末裔(太田資美すけよし)によって築かれ、“日本最後のお城”と称されることもある城跡です。

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この松尾城に、昨年初めて登城し、その際、近隣の歴史スポットも巡っておきたいなぁとリサーチをしてみました。

松尾城があるのは千葉県山武市。
そこから2つ東隣の市を調べてみると、ヒットしたのが「網戸城あじどじょう」でした。

網戸城跡(東漸寺)

え、知らん! と思って、さらに城主を調べてみると、なんと木曽義昌さんではありませんか!
な、な、なんでー???

しかも、旭市という地名も木曽義昌さんのご先祖様とされるアノ「木曽義仲」に由来するものだとか!なぜにー!?

ということで、松尾城とは併せて行けず、先日、時間を作って初めて旭市の木曽義昌さんゆかりの地をめぐり、今こうして筆を取っている次第であります。

武田家滅亡のキーマンとなり、その後は山から海へ! 数奇で波乱の人生を歩んだ木曽義昌さんとは一体?

 

ご先祖様は源平合戦で大活躍したあの義仲!?

木曽義昌さんの生誕地は、祖父(木曽義在)が築いた上之段城うえのだんじょう(と思われます)。

生年は天文9年(1540年)なので、タメには豊臣秀長(秀吉の弟)や鳥居強右衛門長篠の戦いの決死の伝令役として有名)などがいました。

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実家の木曽家は、先述した木曽義仲にルーツを持つ家系と言われています。

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木曽義昌と、そのご先祖様である木曽義仲も知らない方からすると「誰と誰の話をしてんのよ!」と思われそうですが(笑)、先祖の木曽義仲は日本史上の大大大キーマンと言って差し支えはないかと思います。

ザックリ申し上げますと―――平清盛源頼朝の間に天下を取った男 です!

またの名を「源義仲」という木曽義仲は、源頼朝とは従兄弟のセレブな源氏一族です。
ところが、源氏一族の分裂で父・源義賢が居館の大蔵館(埼玉県嵐山町)で、源義平(頼朝の兄)によって暗殺される「大蔵合戦」が起きました。

当時、数え年で2歳だった義仲は父と共に殺される寸前だったところ、家臣の斎藤実盛(我が地元・熊谷が誇る鎌倉武士!)や畠山重能(息子に「一ノ谷の戦い」で馬を背負って駆け下りた伝説を持つ畠山重忠)の機転により脱出に成功!

斎藤実盛/wikipediaより引用

命からがら落ち延びた場所が信濃国の木曽であり、その地名を称したのです。

それから24年。
山奥で雌伏の時を過ごした木曽義仲は「権力を我が物とする平氏政権を打倒しよう!」という「以仁王の令旨」を受けて挙兵し、木曽を出陣。連戦連勝の快進撃で、信濃国から北陸を通り、近江国(滋賀県)を通過して京都に入り、平氏を都落ちさせることに成功したのです。

ただしその後は、後ろ盾となっていた後白河法皇と対立し、源頼朝の軍勢(率いたのは弟の源範頼源義経)と戦うことになり「粟津の戦い」で討死してしまいました。

天下を握ったのはわずか半年ほど。
それでも、朝日が登るような勢いを持って天下に名を挙げた将軍であることから「旭将軍(朝日将軍)」の異名で呼ばれています。

粟津ヶ原の戦い(歌川芳員画)/wikipediaより引用

ちなみに、木曽義仲の大ファンだった歴史上の人物に、アノ松尾芭蕉がいます。

松尾芭蕉は全国行脚の中で度々、木曽義仲のお墓がある「義仲寺」を訪れていて、琵琶湖の近くをよく観光していたそうです。そして「隣にお墓を立てて!」と遺言したため、現在も源義仲のお墓の隣には松尾芭蕉のお墓があります。まさにオタの鑑です(笑)。

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「願主 源朝臣義昌」からの「大檀那 源朝臣家豊」

さて、話がご先祖様の方にズレてしまいました。注目したいのは、木曽義昌さんが日本史・超大物の末裔にあたるお方だということです。

本人も自覚していたようで、永禄6年(1565年)に御嶽神社の里社若宮に奉納した板絵には「願主 源朝臣義昌」と記しています。

しかし!
しかしです!
実はこの系図、めちゃくちゃ怪しいのです!
まぁ、よくあるお話ですね(笑)。

江戸時代にまとめられた史料には、源義仲を初代(二代目は史料によって人物はまちまち・次男の義重、義基、義宗)としているのですが、当時の証拠は無し……。

また、こんな別の説も。
源義仲の生き延びた息子たち(長男・源義高は頼朝の命で殺された)は、親戚の上野国沼田(群馬県沼田市)の沼田家に保護され、以降は「沼田」を称して代々暮らしていたそうです。

その後、源義仲から6代末裔の沼田家村が足利尊氏に味方して武功を挙げ、木曽谷の一部をゲット。木曽家中興の祖となったとも言われています。

さーて、源義仲以降で木曽家の人物が史料にシッカリと登場するのは、源義仲の死から200年近く経った室町時代の至徳2年(1385年)のこと。水無神社と御嶽神社の黒沢口里宮の棟札に「伊予守いよのかみ 藤原家信」と記されています。

あれ? ちょっと待ってください、おかしくないですか?
「源」じゃなくて「藤原」になっているではありませんか!

ところがですよ!
木曽義昌さんの4代前(祖父の祖父)の木曽家豊が興禅寺(木曽町)に寄進した梵鐘には「大檀那 源朝臣家豊」と記されているんです。ちゃっかり変更してる!(笑)

さらに、木曽義豊の息子の代からは「義」という一字を名前に使うようになって、明らかに源義仲を意識しまくるようになりました。

おそらく……もしかしたらですが、先述の沼田家村の代から木曽谷の全体に領地を拡大していくに伴って、名字を「木曽」と称し、姓を「源」に改め、通り字に「義」を用いて、木曽での統治者としての正当性を地元の英雄である“木曽義仲”に託したのではないか……。

と言った作為的な部分がプンプンとニオうのも、歴史の面白さの1つですね!

さてさてさーて、今回の主人公はどこいったー!(笑)
戻しましょう、木曽義昌さんのお話。

 

武田の侵攻を受け抵抗するも……

父・木曽義康の代になり、木曽家は“信濃四大将”と称されるほどの有力な国衆となりました。

そしてアノ「武田信玄」(当時は武田晴信)の攻撃を受けることとなります。

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同じく“信濃四大将”と称された小笠原家&村上家(当主は村上義清 ☆当連載の2人目でご紹介!)&諏訪家と共に、木曽家も対抗。

しかし、天文19年(1550年)に小笠原家、天文22年(1553年)には武田信玄を2度も破っていた村上義清がついに敗れて信濃国を追放されます。

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そして天文23年(1554年)。
木曽谷にも武田信玄の軍勢が押し寄せ、父は居城の上之段城で、木曽義昌は支城の小丸山城(上之段城の以前の木曽家の居城)で籠城戦を繰り広げたといいます。

結果、多勢に無勢であり、武田信玄の勢いを前に降伏……。

その傘下となった木曽義昌さんは、武田信玄の三女とされる真理姫(真竜院)を正室として迎え、信玄の娘婿として武田一門に名を連ねることとなりました。

武田家・西方面の軍団長的な存在となった木曽義昌さんは、美濃国(岐阜県)・遠山家との戦いで大活躍します。

が、武田勝頼が当主となった武田家は、天正3年(1575年)【長篠の戦い】で織田信長徳川家康の連合軍に惨敗を喫するなど、衰退の兆しが見え始めました。

戦後に武田勝頼から岩村城(岐阜県中津川市)の救援を依頼されるも、木曽義昌さんはこれを拒否。経済的な理由だったとされますが、武田家の盛衰を見定めていたのかもしれません。

長篠古戦場

さらに武田勝頼は、天正9年(1581年)に支城の高天神城徳川家康に攻められ、援軍を送ることができず陥落、求心力をさらに失います。

この「第二次高天神城の戦い」と呼ばれる合戦の前後で、木曽義昌さんの運命を大きく変えることになる誘いが織田信長から届きました。

「武田家を離れて、織田家に味方していただけませんか?」

ここにきて木曽義昌さんは、主家を見限って織田信長の傘下となることを決意します。

 

国衆は生き残りが大事 とにかく道を探るのじゃ

小説やドラマなどで、木曽義昌さんはよく“裏切り者”として描かれます。
果たしてそうなんでしょうか?

確かに武田家は奥さんの実家ではありますが、父の代までは天敵中の天敵。滅亡寸前までプレッシャーを与えられた相手です。

その傘下に入ったのは、この時からわずか20数年のこと。
何より、木曽義昌さんのような国衆は、真田家のように生き残ることが一番大切です。

忠義を尽くす対象は主君ではなく“自分の家”!

それが真っ当な選択だと言わんばかりに織田家へ寝返り、人質として弟の上松義豊を武田征伐の総大将である織田信忠(信長の長男)に送りました。

ちなみに、この時に織田家との仲介をしてくれたのは、それまでバチバチの関係で苗木城(岐阜県恵那市)の城主を務めた遠山友忠(正室は織田信長の姪)だったそうです。一時ノーサイド!

苗木城

一方、木曽義昌さんの主君チェンジを信じられなかったのが武田勝頼です。

説得するために使者を送ったところ追い返され、天正10年(1582年)、ついに木曽義昌さんの征伐に動きます。

実は武田家の新居地である新府城(山梨県韮崎市)には、人質として木曽義昌さんの母と側室、嫡男・千太郎、長女・岩姫がおりましたが、武田勝頼はこの人質らを処刑。
そして武田勝頼は、従兄弟の武田信豊(信玄の弟・武田信繁の子)を総大将とする討伐軍を木曽谷に送るのです。

新府城

武田勝頼の討伐軍を迎撃した木曽義昌さんは、信長嫡男・織田信忠の援軍もあって、木曽の鳥居峠で見事に撃退!

織田軍の大軍と合流すると、今度は武田勝頼の領地である信濃国に攻め込み、織田軍と共に深志城(後の松本城)の馬場昌房を甲斐国に追放して制圧しました。

ちなみにこの馬場昌房(実名は諸説あり)の父は、アノ“武田四天王”の馬場信房(信春)の長男だそうで、深志城を落ち延びた後は行方不明となっています。

松本城(前身は「深志城」と呼ばれた

 

織田家に従ったと思ったら本能寺で信長が……

木曽義昌さんの他、同じく武田一門だった穴山信君(信玄の義兄で娘婿)などが織田・徳川軍に味方したこともあって武田家は一気に瓦解。

追い詰められた武田勝頼は、同年3月11日に甲斐国の田野(山梨県甲州市)で、正室の北条夫人と嫡男の武田信勝と共に自害して果てました。
こうして名門・武田家は、木曽義昌さんの決断が大きな要因となり滅亡を迎えました。

武田勝頼・北条夫人・武田勝頼の墓(景徳院:山梨県甲州市)

木曽義昌さんは、この【甲州征伐】において織田軍に味方した功績で、筑摩郡&安曇郡(松本市&安曇野市&木曽町&塩尻市など長野県西部の大部分!)をゲットし、深志城の城主に就任することとなりました!
いかに、織田信長に重要視されていたか分かりますね。

ところが、このまま平穏無事とは参りません!
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