絵・富永商太

武田・上杉家

武田家の子孫は何処へ? 江戸時代に復興した者もいた?【戦国滅亡譚】

天正十年(1582年)の出来事と言えば?

大河ドラマ『麒麟がくる』の影響もあり【本能寺の変】と即答される方も多いでしょうか。

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しかし1582年は、それ以前に戦国史に大きな影響を残したイベントがありました。

天正十年(1582年)3月11日は【天目山の戦い】で武田勝頼が織田家に敗れ、戦国大名としての武田家が滅亡した日です。

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「滅亡」というと、つい一族郎党が全滅してしまった――なんてイメージを持たれがちですが、実際にはそういう例は少なく、特に女性や家臣は生き延びてまた別の人生を送っていることがほとんどです。

武田家の子孫江戸時代に復興しており、誤解を恐れずに言えば典型的なモデルケースともいえます。

本稿では武田家滅亡までの流れと併せて見ていきましょう。

 

織田・徳川に人材を崩され、衰退の道へ

偉大なるお館様・武田信玄が1573年に逝去。

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武田勝頼が当主になった後、1575年【長篠の戦い】で織田信長徳川家康連合軍にボロ負けし、以降、徐々に衰退していきます。

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原因はいろいろな見方がありますが、最も大きな契機になったのは【高天神城の戦い】ではないでしょうか。

家康領の遠江国で孤立した高天神城(静岡県掛川市)の味方を見殺し同然にしてしまったのです。

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信玄本人が語ったかどうかはともかく「人は石垣、人は壕、情けは味方、仇は敵」と伝えられる“人重視”の戦略に対し、この見殺し事件は大いに家中を揺るがしました。

そもそも甲斐は長いこと戦乱状態にあり、勝頼の祖父・武田信虎の時代に、相当苦心してまとめたばかりです。

 

織田徳川の調略で次々になびいていく武田勢

そんな状況ですから、日頃から不満を持っていた家臣や親族も多く、これを見た織田信長と徳川家康が「待ってました」とばかりに彼らへ「ウチに来れば優遇するよ」と働きかけたため、武田の人材はどんどん減っていきました。

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勝頼は人材不足を防備で補おうとして新たに城を築きました。

が、城はタダでは建ちません。

お金も物も人もかかります。その負担を部下に強いたせいで、勝頼は余計に人心を失ってしまいました。

あがけばあがくほど事態が悪化していく――歴史においてはよくある話ですよね。

その状況で、織田信長はついに本格的な武田討伐の軍を起こします。

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正親町天皇からもお墨付きをもらい、名実共に有利なのは圧倒的に織田家。かねてからの同盟相手・徳川家ももちろん一緒になって攻めてきます。

 

木曽に続き重鎮・穴山までもが寝返った!

さらにこのタイミングで、武田勝頼にとっては義弟(妹の夫)である木曾義昌という人物が織田に寝返ります。

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織田方の美濃・飛騨との国境線である西信濃の木曽地方が裏切ったのですから、もちろん勝頼はブチ切れ。義昌から預かっていた人質を殺し、さらに義昌を攻めようとしますが、あいにく2月の豪雪で進軍できません。

冷静に考えれば裏切り者の始末より織田・徳川への備えを優先すべきなんですよね。あるいは後の交渉材料としてキープしておくべきだった。

さらに1582年には【浅間山の噴火】まで起こり、「これ神様も”勝頼オワコン”って言ってるんじゃね?」(超訳)と見られてしまってしまい、さらに家中の統制が取れなくなっていきます。

持明院所蔵の武田勝頼・夫人・信勝/Wikipediaより引用

そんな状態で攻められたら結果は火を見るより明らかでしょう。

各方面で連携を取りながら進撃してくる織田・徳川軍に対し、武田軍は連戦連敗。駿河を任せていた重鎮・穴山信君(梅雪)も実は事前に寝返っており、まさに不幸のズンドコ状態に陥りました。

ゲームだったらフラグが乱立どころか、どう見てもルート確定済みです。

 

勝頼に冷遇されながら最後まで戦った諏訪頼豊

そんな感じで傍から見れば自ら滅亡に向かって爆走していったも同然な武田家も、やはり武士としての意地があるので、勝頼と最後まで残った家臣は戦い続けました。

その一人に、諏訪頼豊(よりとよ)という人がいます。

勝頼の母方の親戚ですが、日頃から勝頼に冷遇されていました。

そのため彼は自分の家臣に「この隙に諏訪家を再興しましょうよ!」と言われます。しかし……。
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